高杉晋作(たかすぎ しんさく)1839年9月27日(天保10年8月20日)〜1867年5月17日(慶応3年4月14日)
幕末の長州(萩)藩士。
父は高杉小忠太。名は春風。字は暢夫。安政4(1857)年、藩校明倫館に入学。次いで吉田松陰の松下村塾に入り、久坂玄瑞と共に双璧と称される。翌年7月に江戸に赴き、昌平黌に入学。獄中の吉田松陰に金品を送る。
文久1(1861)年世子毛利定広の小姓役、翌年5月藩命により幕府船千歳丸に乗船し上海へ渡航、植民地の実情を観察し帰国。同年11月久坂らと品川御殿山に新築中の英国公使館を焼打ちにする。翌文久3年1月松蔭の遺骨を小塚原から回収、武蔵国荏原郡若林村に改葬。3月上洛。尊攘運動の興奮をいとい10年間の暇を乞う。「西へ行く人を慕ふて東行く 心の底ぞ神や知るらん」と、僧形となり東行と号して萩に隠居。
時に長州藩は外国船砲撃を断行し、報復攻撃にあって敗北。直後の6月、藩命により下関防御の任に当たり奇兵隊を結成、自ら総督となる。時に25歳。奇兵隊の「奇」は正規軍の「正」に対する「奇」であり、庶民も入隊できる有志隊であった。
8月18日の政変で京を追われたのち、長州藩内に高まる武力上洛論に反対、翌元治1(1864)年1月に脱藩し上京、帰国して獄に入れられる。出獄後の同年8月、四国艦隊による下関砲撃の善後処理を命じられ講和条約を締結。第一次長州征討の進行に伴い佐幕派の藩政府が誕生、危機を察知して九州に脱走し野村望東の平尾山荘に潜伏。下関に帰り、同年12月に挙兵。死を覚悟し「故奇兵隊開闢総督高杉晋作,則ち西海一狂生東行墓」の墓誌を用意した。
佐幕派藩政府を相手に勝利を収めたのちイギリス留学を希望。次いで脱藩し讃岐の日柳燕石の元に身を寄せる。帰藩後、用所役として藩政指導を担当。
慶応2(1866)年6月海軍総督、幕府との開戦直後、小倉方面の戦闘を指揮した。同年10月、肺結核を重くして退職、翌年4月下関に病没した。享年29歳。のちの顕彰碑には「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢えて正視する者なし。これが我が東行高杉君に非ずや……」とある。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」,新潮社「新潮日本人名辞典」