徳川綱吉

徳川綱吉(とくがわ つなよし)1646年2月23日(正保3年1月8日)〜1709年2月19日(宝永6年1月10日)

江戸幕府第5代将軍。

3代将軍家光とその側室於玉(のち桂昌院)の子。幼名徳松。

慶安4(1651)年賄料15万石を賜り,翌承応1(1652)年竹橋に屋敷が完成して江戸城三ノ丸より移徒。2年元服,従三位近衛中将兼右馬頭に叙任され,綱吉と称す。明暦3(1657)年大火により屋敷が類焼し,神田館に移転。

寛文1(1661)年10万石を加増されて上野国館林城主となり,参議に任じられた。延宝8(1680)年35歳のとき,兄4代将軍家綱病気のため継嗣となり,従二位権大納言に叙任。同年家綱没後将軍職に就任し,正二位内大臣に叙任された。館林徳川家はいったん子の徳松か相続したが,徳松の江戸城西ノ丸入りとともに消滅し,家臣は幕臣に編入された。将軍となった綱吉は,前代に権勢を振るっていた大老酒井忠清を罷免し,代わって自分の将軍就任を支持してくれた老中堀田正俊を翌天和1(1681)年に大老に就命して政治革命に着手した。

その政治は「天和の治」と呼ばれ,「賞罰厳明」と天領行政の刷新を特色とする。つまり,綱吉は親藩のひとついである越後高田藩主松平光長を改易したのを手始めに,譜代大名と旗本を多数処罰して政の主導権を獲得した。さらに堀田正俊を農政の専管者に任命するとともに,総代官の年貢末進の検査,および勘定吟味役の新設を通じて世襲代官多数を処罰し,幕府代官の官僚化を進めていった。しかし,堀田正俊は貞享1(1684)年に刺殺されたため,以降は綱吉の館林時代の旧臣である牧野成貞や柳沢吉保を中心とする,いわゆる「側用人政治」が展開された。後期は前期の政治を継承しつつ,生類憐みの令などを通じて将軍専制権力はさらに強化され,また貸幣改鋳や積極的な貿易策によって商品決済への対応を強めた時期でもあった。綱吉は学問好きではあるが,毀誉褒貶の甚だしい人であり,その性格がいわゆる「賞罰厳明」を引き起こしたともいえる。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」