日蓮

日蓮(にちれん)1222年(貞応1年)〜1282年11月14日(弘安5年10月13日)

鎌倉時代の僧。日蓮宗(法華宗)の開祖。安房国(千葉県)長狭群東条郷の小湊の人。

日蓮はその生家について「今生には貧窮下賤の者と生まれ、旃陀羅が家より出り」(『佐渡御書』)とか,「安房国長狭郡東条郷片海の海人が子也」(『本尊問答抄』)と,生家が悪律儀,不律儀の殺生を生業としたという意味のことをのべている。だが,日蓮がその出自をこのように卑下自称するときは,必ず法華経受待の法悦の無限さを,自己の穢身凡夫の肉身と比べて説明する場面であって,この自称をそのまま事実とすることは必ずしも妥当ではない。

12歳のとき,安房の名刹・清澄山の道善房の弟子となり,16歳で出家,是聖房蓮長と名乗る。のち鎌倉,京都,高野山,四天王寺,興福寺,延暦寺に遊学,ついに釈尊の出世の本懐は一切経のなかでただただ法華経にある,だから諸経を捨てて専持法華経,その法華経の眼目である題目を専唱すると,善悪人・男女・老若・俗世の貴賤や貧富の差別なく,すべての人は成仏できるのとの確信に到達した。この確信のもと,日蓮は法華経の弘通を決意し,帰郷して故山の清澄山上ではじめて題目をとなえ,次いで一山の大衆に対して念仏や禅など余宗の破折を説いた。時に32歳の建長5(1253)年,これを日蓮の立教開宗という。

だが,日蓮は地頭の東条景信の怒りにふれて清澄山を追われ,鎌倉に逃げた。おりしも東国では天変地異が頻発し,人心は動揺し,幕府も対策に苦心していたが,文応1(1260)年日蓮は北条時頼に対して,国土人民が法華経に帰依すればこの災害は克服でき,邪法たる余経に帰せば内乱外寇によって亡国になると諫暁した。『立正安国論』である。このように日蓮は幕府の宗教政策を非難し,諸宗を攻撃したので,しばしば念仏者すぎに襲われ,幕府もまた日蓮を伊豆,次いで佐渡に流した。日蓮はこれを法華経弘通の行者には必随する法難であると甘受し,特に流嫡3年の佐渡時代に「未法の弘通者,上行菩薩」との自覚を感得し,『開目抄』,『観心本尊抄』を著し,独特の十界本尊を創図し,宗教者として新境地をひらいた。

佐渡赦免後の文永11(1274)年甲斐(山梨県)の身延山に隠栖,以後は主に著述と弟子の養成に当たった。日蓮の教えは東国で地頭以下の武士,名主百姓,また女性に受容されたが,弘安5(1282)年旅の途次,武蔵の池上で入滅。遺骨は身延に送られた。著述・書状500点余のうち,特に信者に与えられた消息は文脈が流麗闊達,情熱にあふれ,優れた文章家でもあることを示す。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」