清少納言(せいしょうなごん)966年頃(康保3年)〜没年不詳
平安時代の歌人,作家。
治安・万寿年間(1021〜28)ころ没。随筆集『枕草子』の著者。曾祖母清原深養父と共に中古三十六歌仙のひとり。父は清原元輔。
橘則光と結婚して則長をもうけるが,のち離別。中関白藤原道隆の後見する一条天皇皇后定子に仕え,後宮では,折りにつけ機敏な才能を発揮した。藤原公任,源俊賢,藤原斉信,藤原行成らをはじめ,公卿殿上人などの貴顕との交流においても才能を破瀝している。
道隆の死後,その子伊周,隆家が失脚し,定子の後宮が衰微していくなかで,反対勢力の道長方とみられたこともあった。
長保2(1000)年の定子没後は,その遺児脩子内親王に仕えたり,摂津守藤原棟世と結婚し,小馬命婦を生んだりしたらしい。晩年は零落して地方に住んでいたという逸話が『無名草子』や『古事談』などにあるが,実際は父の住んでいた月輪(京都東南の郊外)で暮らしたとされる。
歌集『清少納言集』には日常生活的な詠歌が多く,機知に長けた表現の即興的詠風である。その歌風には古今集風の詠歌をする曾祖父と,即興的詠歌をする父との歌才を直接に受け継いだ面がある。しかし,ふたりの影響は,詠歌よりも『枕草子』の表現に結実している。
『紫式部日記』には「さかしだち,真名書きちらして侍るほども,よく見れば,まだいとたへぬこと多かり(賢ぶって学才をひけらかすけれども,浅薄なものでしかない)」と,厳しい批評があるが,むしろ臨機応変な対応が,要求された後宮で,鋭敏な感性と,常識的教養に裏打ちされた知識と即興的行動が周囲の人々を,感嘆させた。また,周りがそれを歓迎したことなどが『枕草子』成立の基盤となっている。
このように『枕草子』は,宮廷文化のなかで,中関白家の教養ある環境と清少納言の感性,表現力とから生まれたものであるといえる。「春はあけぼの」などそれまで和歌には詠まれなかった材料も,『枕草子』では新たな美的評価が与えられるなど,清少納言の文学的貢献は大きい。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」