宇田川榕庵(うだがわ ようあん)1798年4月24日(寛政10年3月9日)〜1846年8月13日(弘化3年6月22日)
江戸後期の蘭学者。
名は榕,榕庵は号。美濃い国(岐阜県)大垣藩医江沢養樹の長男。江戸生まれ。
文化8(1811)年実父の師で津山藩医の宇田川玄真の養子となる。
はじめ中国医学の古典や本草を学んだが,同11年馬場佐十郎にオランダ語「訳文の法」を師事,2年後吉雄俊蔵(常三)に半年ほど蘭語文法を学び,進境著しかった。翌年津山藩医に召し抱えられるが,このころ『ショメール日用百科事典』を呼んで西洋の植物学に関心を持ち始めた。
5年後経文仕立ての『西説菩多尼訶経』を刊行し,初めて西洋植物分類学の概要を紹介した。
また天保4(1833)年リンネの植物分類学などを紹介したわが国最初の西洋植物学書『植物啓原』を著す。
文政9(1826)年蛮書和解御用として『厚生新編』(ショメール百科事典)の翻訳に参加,同年江戸産府にきたシーボルトに桂川甫賢と共に対面,シーボルトは両者から贈られた乾腊植物の優秀さをほめ,御礼に洋書を贈った。
『植学啓原』の冒頭で,自然科学は弁物(博物学),窮理(物理学),舎密(化学)と順に階梯だっており,弁物の学は動物,植物,山物(鉱物)の学から成ると指摘して,西洋科学の階層的構造に注目している。
榕庵の化学研究は江戸時代を通じ最高峰に位置するが,養父玄真の『遠西医方名物考』や『新訂和蘭薬鏡』の校訂を通じ薬学には科学知識が不可欠との認識を得たことに始まる。ラヴォアジエ化学の体系を紹介した『舎密開宗』は天保8年から刊行が始まり,元素概念を詳述した『遠西医方名物考補遺』とともに,江戸時代の化学研究の基盤を作った。
榕庵は蘭書からの翻訳のみならず,化学や電気の実験を手がけ,その一端は各地の温泉水の定性分析をした『温泉試説』に現れている。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」