田中正造(たなか しょうぞう)1862年6月12日(文久2年5月15日)〜1945年(昭和20年10月16日)
明治期の民権家,政党政治家,社会運動家。
下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市小中町)の名主の家に出生。父は富蔵,母サキ。
儒家赤尾小四郎の塾に学ぶ。維新後江刺県(岩手県)付属補などを経て明治11(1878)年ごろから自由民権運動に参加。
13年栃木県会議員に当選。県民負担軽減,小学校教育充実などに取り組み,三島通庸県令とは特に激しく対立。
19年県会議長。第1回総選挙から6回連続衆議院議員当選,立憲改進党,進歩党の重鎮として議場で活躍。24年ごろから足尾鉱毒問題に関心を持ちたびたび政府に質問書を提出,29年の渡良瀬川大洪水を契機に鉱毒被害が深刻化するとさらに関係を深めたが,それとともに政界で孤立化した。
34年12月10日,第16議会開院式帰途の明治天皇に直訴を試みるも果たせず。以後も運動を続行するが,貧窮の中で病死した。その生涯は江戸時代の義民と民権家との系譜関係を想像させる。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」