坂上田村麻呂

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)758年(天平宝字2年)〜811年6月17日(弘仁2年5月23日)

平安初期, 蝦夷征討にもっとも深くかかわった武将。

苅田麻呂の子。母は放火浄永の娘とも。

宝亀11(780)年,23歳で近衛将監に任じられて以来, 武官を歴任。延暦13(794)年, 征東副使として下向, これが東北経営にかかわった最初である。

16年征夷大将軍,詳しくいえば「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使兼陸奥守鎮守将軍」に任じられ,東北経営にかかわる全指揮権を与えられている。

21年, 造胆沢城使として現地に下っていたとき, 蝦夷の族長阿弖流為,盤具母礼らが五百余人を率いて投降,田村麻呂はふたりを連れて上京し,命を助け彼らによる現地民政の安定化を進言するが,公卿たちの認めるところとならず, ふたりは殺されてしまう。これを,彼らを欺く行為とみる理解もあるが,田村麻呂の性格から考えても善意を疑うことはないであろう。

翌年, 造志波(斯波)城使に任命, さらに23年,再び征夷大将軍に任じられたが, いわゆる「徳政相論」によって事業は中止された。のち薬子の変(810)では平城上皇の東国行きを阻止している。

身長5尺8寸(約175cm), 胸の厚さ1尺3寸(約40cm), 赤ら顔で目は鷹のように鋭く,黄金色のあごひげがふさふさしていたといい, 東北での活躍ぶりから「稀代の名将」「毘沙門の化身」と称された。性格は柔和で,怒れば鬼神猛獣でもひれ伏したが, 笑えば赤ん坊もなつくようなやさしい顔になったという。

弘仁1(810)年大納言となり,翌年東山粟田の別荘で没した。武人にふさわしく王城に向かい,武具姿で立ったまま棺に納められたといい, 栗栖野(京都市山科区)にある円墳がそれと伝え,嵯峨天皇は詩や「田村麻呂伝記」を作ってその死を悼んでいる。

11男1女の子供のうち大野,広野らは武官となり継承, 娘春子は桓武に入内。大同2(807)年, 清水寺を建立(開基は延鎮)したと伝えるが, 東北地方にも田村麻呂建立と伝える寺社が少なくない。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」