源経基(みなもとのつねもと)生年不詳〜961年(応和1年)
平安中期の武将。
父の貞純親王が清和天皇の第6皇子ということで六孫王と呼ばれた。賜姓源氏。
天慶1(938)年武蔵介として任国にあったとき, 権守興世王と共に同国の土豪である武蔵武芝と争い,平将門の仲裁でいったんはおさまったが,武芝の一派が経基の営所を包囲したことから,将門らが武芝に味方して自分を討つと思い京へ逃げ帰り,彼らの謀反を朝廷に訴えている。
このときの行動を評して,「介経基,未だ兵の道に練れず」とは,『将門記』の述べるところである。
このあと将門の乱を鎮圧する征東軍に加わって東国に下っている。
この一件がかたづくや西国での藤原純友の乱の追捕次官として西下し鎮定した。
この直後,大宰権少弐で警固使の任にあった経基は豊後国(大分県)で賊徒の首領桑原生行を生け捕りにし,馬や絹などを押収した。六孫王神社(京都市南区)に経基のものと伝える墓がある。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」