平忠盛

平忠盛(たいらのただもり)1096年(永長1年)〜1153年2月10日(仁平3年1月15日)

平安後期の武士。武家平家の基礎を築く。

父正盛は白河院の近習。忠盛も院北面となり,検非違使に任じられる。伯耆守を振り出しに諸国の受領を歴任,その富をもって上皇に奉仕。鳥羽院の時代にも院近臣として活動, 長永1(1132)年には得長寿院を造った功により内の昇殿を許された。

この昇殿は未曾有と評され,貴族の反感を買った。

翌年, 肥前国の神崎荘を知行して日宋貿易に関与して訴えられ,保延1(1135)年には西海の海賊の頭を捕える功をあげるが,無関係な人間を海賊に仕立てたとの噂が立った。

藤原頼長は忠盛を,巨万の富を蓄え,多くの家人を持ったが, 慎み深い人と述べている。位は正四位上, 公卿目前で死去。和歌『忠盛集』がある。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」