藤原道長

藤原道長(ふじわらのみちなが)966(健保3年)〜1028年1月3日(万寿4年12月4日)

平安中期の公卿。

法成寺殿と称した。法号は行覚。従一位。摂関兼家と藤原中正の娘時姫の3男。

強弓の人とか,肝だめしでふたりの兄(道隆,道兼)に勝ったといった豪胆ぶりを伝える話などは有名。

寛和2(986)年,父兼家が一条天皇の摂政となると,翌年道長は従四位から一気に従三位に。

正暦(991)年権大納言に任じられたが,この間あたりの妻を得ている。ひとりは左大臣源雅信の娘倫子(結婚は987年)。道長の人物を見込んだ倫子の母(藤原穆子)が反対する夫雅信を説得して成立したという。もうひとりは姉詮子(東三条院、一条天皇の母)のもとに預けられていた左大臣源高明の娘明子。この結婚(988)は姉のすすめによる。賜姓源氏の娘をふたりも妻にしたのは,その貴種性と財力をねらったものである。

長徳1(995)年疫病が流行,関白を務めていたふたりの兄が死去すると,その後継者の地位をめぐって,兄道隆の息子伊周と激しく争うが,姉詮子の強力なバックアップによって同年5月,内覧(摂政, 関白に準ずる職)となる。このあたり,強運にも恵まれていたといえよう。ひと月後に右大臣・氏長者,翌2年左大臣となって,政界の頂点に立ち,以後持ち前の政治力を発揮して政界を牛耳った。

しかし,一条・三条天皇時代(986~1015,ともに甥に当たる)には左大臣(996),内覧として過ごし,外孫である後一条天皇即位(1016)のとき1年ほど摂政になっただけで子の頼通に譲り,ついに関白は経験しなかった。完璧なまでに権力を行使し得た時点において,もはや摂関に執着することもなかったといえよう。その道長が一時的に摂政になったのは待望の外孫の即位の即位による喜びからのみであったとみられる。

外孫の即位に至る執念には凄まじいものがあった。長女の彰子を強引に一条天皇の中宮とし,生まれたふたりの孫を天皇に立てると彰子の同母妹をそれぞれに入内させた。

その結果, 威子が後一条天皇の中宮となったことで「一家に三后」という未曾有のことを成し遂げている。「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」という歌は波子立后(1018)の夜の宴席で酔いにまかせて歌ったもの。

なお後一条の即位は再三にわたって三条天皇に譲位を迫って実現したもので,その際に天皇との約束から第1皇子の敦明親王を東宮としたが,三条天皇が崩御するや敦明を辞退に追いやり,外孫で後一条天皇の弟の敦良親王(のちの後朱雀天皇)の立太子を実現した。

平安京内の数カ所に豪邸を構えたが,なかでも栄華の舞台となったのは土御門殿である。出産のためこの邸へ里下りした中宮彰子についてきた女房の紫式部は邸の美しさや道長の勇姿, 皇子誕生の喜びに沸く様子,帝の行幸などを『紫式部日記』に描写した。

土御門殿の東の京外に造営したのが阿弥陀堂(無量寿院)に始まる法成寺すなわち「御堂」であり,道長の「御堂」「御堂関白」の呼称はこれによる。木幡(宇治市)の累代の墓地に浄妙寺を建立した。

『源氏物語』の主人公の光源氏に投影され,『栄花物語』では理想的な人間として描かれている。後世に『御堂関白記』と命名される日記の自筆本14巻が京都の陽明文庫にあり,現存の自筆日記としては最古のものである。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」