西郷従道(さいごう つぐみち)1843年6月1日(天保14年5月4日)〜1902年(明治35年7月18日)
明治期に活躍した政治家, 軍人。
西郷隆盛の15歳年下の弟。幼名を竜助。13歳で島津家の茶坊主, 17歳で還親代わりとして成長, 出世だけでなく思想面でも多大俗して慎吾と改名。
9歳のとき両親と死別し,兄隆盛を親代わりとして成長,出世だけでなく思想面でも多大の影響を受けた。
戊辰戦争では各地に転戦したが,特別の功績は記録されていない。だが山県有朋と共に選ばれ,明治2(1869)年6月から1年余,主にフランスの兵制を視察できたのも兄の威光の故であろう。
帰国直後に兵部権大丞, 陸軍掛となり,4年7月兵部大丞, 12月兵部少輔に任ぜられるという異例の出世は隆盛の存在なしではありえない。周囲が隆盛に気を使い,特別扱いしたとも考えられる。
6月隆盛が征韓論論争に敗れ,その下野が決定的になると,逆に従道は台湾事務都督,次に台湾生蕃処理取調委任,台湾蕃地事務都督となり,7年4月から12月まで行われた台湾出兵を指揮した。この間5年3月陸軍少将,7年4月陸軍中将と山県に次ぐ昇進であり,隆盛の分が従道にまわったようにみえる。
台湾出兵は,士族の不満解消のための処方箋であったが10年年恐れていた西南戦争が勃発, 従道は陸軍卿代理を務め東京を動かなかった。
隆盛と袂をわかったことに対する非難強く,これを避けるためイタリア特命全権大使になったが,結局赴任しなかった。
11年5月参議兼文部卿, 12月から13年2月まで兼陸軍卿, 14年10月から18年12月まで兼農商務卿を歴任,山県に並ぶ陸軍, 幕府の要石の位置に立った。隆盛に似た茫洋として把握し難い性格, 融通無碍の性格を奇貨とした周辺によって持ち上げられたのだろう。
18年内閣制の発足とともに初の海軍大臣となり,以後海軍籍に入る。外に清仏戦争あり,鎮守府を中心としたフランス式海岸防備体制を導入,清国に対する戦備の充実に努めた。
途中第1次松方正義内閣の内務大臣, 枢密顧問官に代わることもあったが,31年まで海軍大臣として海軍部内をまとめるうえで功績をあげ,同年初の海軍元帥となった。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」