太宰治(だざい おさむ)1909年(明治4年6月19日)〜1948年(昭和23年6月13日)
小説家。
本名津島修治。青森県生。源右衛門・タネの六男。東京大仏文科中退。
津島家は廃藩置県後の変動期に急成長した商人地主で、県下有数の大地主であった。学力補充のため高等小学校で一年間学んだあと、青森中学に入学。その3年生の頃から文学を志し、同人雑誌を刊行したりした。
昭和2年弘前高校に進み、この年芥川龍之介の自殺に衝撃を受ける。上田重彦(石上玄一郎)のいた新聞雑誌部に入り、左翼文学に近づく。
昭和5年東大仏文科に入学して上京、左翼の非合法活動の手助けをする。この年秋、生家から分家除籍された直後、有夫の女給田辺あつみと鎌倉腰越でカルモチン心中を図り女性は死亡、自殺幇助罪起訴猶予となる。
小山初代と同棲し、アジト提供のかたわら俳句に凝ったりしながら、習作を書続ける。
昭和7年夏、青森警察署に出頭したことで左翼との縁は切れ、本格的に創作に取組む。翌8年「海豹」に加わり『魚服記』『思ひ出』を発表して注目され、作家活動に入る。
昭和10年5月「日本浪受派」に参加して『道化の華』『ダス・ゲマイネ』を発表、『逆行』によって芥川賞の候補となるが落選。この間に虫垂炎から腹膜炎となり、鎮静のためのパビナール中毒となり生活は乱れる。
翌11年第一創作集『晩年』を刊行。転向後のいわゆる自我解体期の表現を模索して、時代の苦悩に共鳴する読者を持った。この秋、精神病院に1か月入院してパビナール中毒を癒し、『二十世紀旗手』『HUMAN LOST』を発表。
昭和14年石原美知子と結婚し『富岳百景』を発表するあたりから中期の安定期に入る。
この年刊行の短篇集『女生徒』で北村透谷賞を受賞した頃から、原稿注文相つぐ。『鷗』(昭15)『春の盗賊』(昭15)などで前期のロマンチシズムへの未練を表白するが、『東京八景』(昭15)を書いて心境を整理する。一方、『駈込み訴へ』(昭15)『走れメロス』(昭15)『清貧譚』(昭16)など、古典などに材を得た作品を多く発表。
昭和16年夏、10年ぶりに帰郷し、『帰去来』(昭17)『故郷』(昭18)を書く。この頃から敗戦にかけて、多くの作家が身作となる中で『正義と微笑』(昭17) 『津軽』(昭18)『新釈諸国断』(昭20) 『惜別』(昭20) 『お伽草紙』(昭29)など健筆をふるった。
昭和20年甲府の妻の実家から、さらに故郷金木に疎開して敗戦を迎える。
後期は『パンドラの匣』(昭20)で敗戦後の新現実への希望を示すが、時局便乗のサロン思想に失望、無頼派を自称し、『冬の花火』(昭21)『春の枯葉』(昭21)の二戯曲を書く。
上京後、『ヴィヨンの妻』(昭22)『斜陽』(昭22)『人間失格』(昭23)などを発表して混乱の世相に龍児となる。
「新潮」に『如是我聞』(昭23)連載。その間『斜陽』のモデル太田静子に治子が生まれるなど、生活に重荷が重なり、山崎富栄と玉川上水に入水自殺する。
いかなる既成秩序にも安住しまいとする自店の姿勢は、戦中戦後の青春の一典型として、田中英光はじめ多くの後続に影響を与えた。また二女津島佑子は、作家として独自の地歩を築いて活躍している。
出典: 明治書院「日本現代文学大辞典」