宮沢賢治

宮沢賢治(みやざわ けんじ)1896年(明治29827日)〜1933年(昭和8921日) 

詩人・児童文学者。

岩手県生。政次郎・イチの長男。盛岡高等農林学校(現、岩手)農芸化学科卒。同研究生修了。父は質・古着商を営む。盛岡中学の時から短歌を作り始める。

卒業後、家業の手伝いに従事した後、盛岡高等農林への進学を許される。この間、島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』を読み、異常なまでの感動を覚えた。高等農林在学中は、友人保阪嘉内らと同人雑誌「アザリア」を刊行、短歌・小品を発表。大正7年の卒業後は研究生とて在学。指導教授関豊太郎のもとで稗貫郡土性調査従事した。研究生修了後の職業選択について父親と対立するが、結局、家業に就く。この頃、法華経・日蓮への帰依が昂まり、大正8年には日蓮主義の在家の信仰団体国柱会に入会した。

大正10年信仰をめぐる父親との対立の末に家出上京。筆耕によって収入を得ながら国柱会での奉仕活動に従事すると共に、上野の図書館等に通い本格的に文学の勉強を始めた。

同年8月末、妹トシ病気の報に帰郷。童話の執筆を始めた。

同年12月稗貫郡立稗貫農学校(後に県立花巻農学校となる)教諭。

大正11年1月から「心象スケッチ」()を書き始める。農学校教師として、草創期の学校の自由な雰囲気のなかで、授業法に創意工夫をこらし、音楽・演劇等を学校行事に積極的に取り入れるなどして、生徒たちの信頼を集めた。

大正11年11月27日妹トシの死に衝撃を受け、翌年7月末まで、旺盛なスケッチ・童話の創作を中断、深刻な信仰上の苦悩に直面した。

大正13年詩集『春と修羅』刊行、同年末にはイーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行するなど活発な創作活動を展開した。15年初には、青年教育のための岩手国民高等学校で「農民芸術」を講義。農学校教師として貧しい農民の子弟たちに接触する中で社会的矛盾に目覚め、大正15年に農学校を退職、独居自炊の農民生活をはじめ、羅須地人協会を設立して、農村文化の興隆を目指し、農閑期には肥料設計の活動を活発に行った。

この時期までの心象スケッチは『春と修羅』第二集・第三集(いずれも未刊行)として残されている。昭和3年夏には、不眠不休献身的活動などから肺を病み、以後2年余の間病臥。

病との闘いや死をみすえた「疾中」詩篇を書いた。6年には一時回復して東北砕石工場技師として石灰肥料普及に努めたが、秋には再び病臥、病床にあって、農民からの肥料設計の相談にこたえたり、童話や心象スケッチの推敲をするほか、文語詩を積極的に書いた。7年『グスコーブドリの伝記』を発表。

8年の没後、詩『雨ニモマケズ』(9)が発表された。生前は、ほとんど知られなかったが、九年草野心平や高村光太郎などにより全集が出版されると共に『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などが発表され、まず倫理的人間が注目を集め、次第に、自然・宇宙・科学の渾然一体となったミクロコスモスとして、さまざまな関心を集めるに至り、後代に大きな影響を与えている。

出典: 明治書院「日本現代文学大辞典」