樋口一葉(ひぐち いちよう)1872年(明治5年3月25日)〜1896年(明治29年11月23日)
小説家・歌人。
本名奈津。東京生。則義・あやめの次女。青海学校高等科中退。
父則義は甲斐国山梨郡中萩原村(現、塩山市中萩原)の農家の出だが、安政4年に同じ村のあやめ(後にたき、滝)と江戸へ上り、苦労の末に御家人の株を買って武士となったが、間もなく幕府は崩壊し、一葉の生まれた頃は東京府の官吏であった。しかし、一葉は生涯士族の娘としての誇りを持ち続けた。
一葉の受けた学校教育はすべてで3年足らずであり、小学校さえ満足に卒業していない。11歳で青海学校高等科4級を首席で修了退学以後は、学校に通うことはなかったが、父のはからいで和歌を学び、14歳のとき中島歌子の萩の舎塾に入り、その文学の基礎が培われた。
萩の舎で習得したことは、詠歌はもとより、歌日記・随筆のたぐいを雅文で綴ることであったが、それらの範として読んだ源氏物語・伊勢物語・古今和歌集などの平安朝文学は、初期の小説の上に大きく影響している。
一葉は萩の舎に入って間もない14歳のときから日記を書きはじめ、以後断続はあるが没年まで44巻の『一葉日記』(明45)を書き残した。
日記を書き出した明治20年の暮れ、長兄の泉太郎が病死、長女のふじも次男の虎之助も家を出ていたので家督を相続。
明治22年に父が事業に失敗し多くの負債を残して病死すると、一葉は一家の責任者となるが、婚約の間柄にあった渋谷三郎から一方的に解消を求められ、心に痛手を負う。
明治23年本郷菊坂に一戸を構え、母と二つ年下の妹くにの三人で針仕事や洗濯の内職で暮らしをたてた。一方、萩の舎の姉弟子田辺龍子(号花圃、三宅雪嶺夫人)が、小説『藪の賞』を書いて多額の稿料をもらったことに刺激され、「東京朝日新聞」の小説記者半井桃水に師事して小説を書きはしめる。
明治25年3月桃水の創刊した雑誌「武蔵野」に第一作『闇桜』を発表。桃水をひそかに恋するようになるが、萩の舎では桃水との間柄が問題になり、桃水とは別れることになり、作品発表の場も失う。
ところが、花圃の紹介で「都の花」に『うもれ木』(明25) 『暁月夜』(明石)などを掲載することができ、後に「文学界」の青年作家たちとの交流の機緑ともなる。
しかし、その生活は窮乏をきわめ、明治26年下谷龍泉寺町へ引っ越し荒物屋を開く。吉原遊廓近くにあるこの町での、社会の底辺での生活から、一葉は文学に開眼。
翌年の初夏、丸山福山町に移ると、「文学界」の青年作家たちが相次いで来訪する中で、「文学界」に『晴夜』(明27)『大つごもり』(明27)を発表し、『たけくらべ』(明28〜29)を連載。「文芸倶楽部」に『にごりえ』(明28)『十三夜』(明28)を発表。「文芸俱楽部」(明29・4)に一括発表した『たけくらべ』が森鴎外・幸田露伴らに激賞され、作家としての不動の地位が固まる。
明治29年11月23日、粟粒結核のため名声いよいよ高まる中、24歳6か月で死去。
出典: 明治書院「日本現代文学大辞典」