谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)1866年(明治19年7月24日)〜1965年(昭和40年7月30日)
小説家。
東京生。倉五郎・せきの戸籍上の長男。東京大国文科中退。弟に英文学者谷崎精二がいる。
父の家業失敗のため書生をしながら東京府立一中(現、日比谷高)を卒業し、旧制一高英法科から東京帝国大学国文学科に進んだが中途退学。
明治・大正・昭和の三代にわたるその作家活動は、およそ五つの時期に区分できよう。
第一は、明治の最後の3年間および大正初年の耽美主義の時代。
明治43年、小山内薫・後藤末雄らと第二次「新思潮」を創刊した谷崎は、同誌に『刺青』(明43・11)『麒麟』(明43・12)、次いで「スバル」に『少年』(明44.6)『幇間』(明44.9)などのきらびやかな短篇小説を続々と発表し、明治44年、「三田文学」11月号に永井荷風が書いた『谷崎潤一郎氏の作品』による激賞を得て、一躍新進作家としてデビューした。
出発期の谷崎は、当時全盛の自然主義文学に対抗して西欧世紀末の耽美主義を新世代の旗印としてうちだしたのである。
第二期はモダニズムの時代。大正12年の関東大震災を間にはさんで、大正年間のほぼ全般にわたる。大正4年の石川千代との結婚は、谷崎の作家生活に一転機をもたらした。性格の不一致が家庭に優性的な危機を引きおこし、その結果生じた佐藤春夫との三角関係(いわゆる「小田原事件」)や義妹石川せい子との恋愛事件が、世に大きな波紋をひろげた。
この時期、谷崎は『神童』(大5)『鬼の面』(大5)『異端者の悲しみ』(大6)などの自伝的な作品を手がけルカが、大正初年代後半にはスランプ状態に陥る。そこから脱出させ、谷崎をみごとに立ち直らせたのが、傑作『痴人の愛』(大13〜14)であった。
第三期はいわゆる「古典回帰」の時代。大震災の後、関西に移住した谷崎は、しだいに関西の文学風土に同化し、とりわけ近代文学以前の「物語」の話法に開眼する。折から、後に夫人となった根津松子と邂逅したことともあいまって、『装小虫』(昭3~4)『卍』(昭3~5)『百目物語』(昭6) 『旅刈』(昭7) 『春琴抄』(昭8)『陰翳礼讃』(昭8~9)などの名作が相次いで発表された。
第四期は、昭和10年代の戦争の時代。谷崎は、昭和14年から『源氏物語』の現代語訳という息の長い仕事に取りかかるが、やがて昭和17年、崩壊してゆく旧家を舞台に日本社会の風俗絵巻を描いた大作『細雪』(昭18〜23)に着手する。しかし、この作品は戦争中には発表できず、完結したのは戦後の昭和23年になってからであった。
第五は戦後の老熟期。この最後の開花の時代は、美しい母性思慕の主題を描いた『少将滋幹の母』(昭24〜25)をもって始まる。それから世を去る昭和40年までの十数年間、谷崎は、「老い」と「性」との葛藤を最後の主題として、『鍵』(昭31) 『夢の浮橋』(昭34)などの作品で、深いエロティシズムの世界を探究しつづけた。この主題をユーモアとデタッチメントをもって描いた『瘋癲老人日記』(昭36〜37)が、谷崎文学の最高峰をなしている。
出典: 明治書院「日本現代文学大辞典」