紫式部(むらさきしきぶ)生年不詳〜1014年以降(長和3年)
天延1(973)年ごろ出生か。平安時代の物語作者,歌人。『源氏物語』の作者。
父は藤原為時,母は藤原為信の娘。父の官職であった式部大氶と姓から,当初は藤式部という女房名で呼ばれていたが,おそらくは没後,紫式部の名で呼ばれるようになった。その呼称は『源氏物語』の登場人物である紫上の名によるという説が有力である。実名は不明。
幼時に母を失い,学者,漢詩人であった父のもとで成長。兄弟の惟規より漢籍の覚えが早く,男子であったらと父を嘆かせた。長徳2(996)年に越前守となった父の赴任に同行したが,任期途中の同4年に単身帰京し,まもなく遠縁で,数人の妻と子供のいる40歳代の藤原宣孝と結婚,翌年にはのちに大弐三位と呼ばれる娘が生まれたが,長保3(1001)年に夫が急死,その後は寡婦の生活を送った。
『源氏物語』の執筆はそのころ始まったと考えられる。おそらく文才を認められ,寛弘2(1005)年ごろ,藤原道長の娘で一条天皇の中宮であった彰子に女房として出仕,同僚たちの視線のなかで,目立つことを恐れて学才を隠しながらも,彰子に『白紙文集』を進講したりした。道長の妾だったともいうが疑わしい。
『紫式部日記』は,寛弘5年から7年までの彰子の後宮の繁栄を,沈鬱な自己の心を見つめながら記録し,同僚女房への批判なども書簡体で加えた作品だが,そこには,酔った藤原公任から「若紫」という『源氏物語』の登場人物の名で呼び掛けられた話や,『源氏物語』を読んだ一条天皇に『日本紀』をよく読んでいると賞賛され,同輩から「日本紀の御局」というあだ名をつけられた話などが記されており,出仕後も書き続けられた『源氏物語』が,そのころすでに男性までさかんに読まれていた様子がうかがわれる。
中国文学や伝承を巧妙に利用し,歴史的事実をも踏まえ,それ以前のさまざまな作品の達成を承けて和歌と散文の融合によるすぐれた内面描写の世界を切り開いた『源氏物語』は,それまでの物語の水準を大きく超えた日本文学を代表する作品となり,その影響は日本文化の全領域におよんでいる。その作者紫式部は,人の心を迷わず罪で地獄に堕ちたといわれながら,一方で観音の化身であったともされ,また儒教的視点から才色兼備の賢女と評されるなど,『源氏物語』とともにその像も後世さまざまに変遷した。
20世紀に入るとウェイリーの英訳などによって『源氏物語』は海外でも高い評価を受け,世界文学の古典とされるに至ったが,紫式部も世界的に著名な作家のひとりとなり,1966年には日本人として初めてユネスコの「偉人年祭表」に加えられた。
『源氏物語』には795首の作中歌がみられるが,このほか,歌集『紫式部集』には,幼なじみの女友達との再会と別離を詠んだ「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かげ」など,娘時代の作者の面影を伝える和歌もみられて興味深い。『拾遺集』以下の勅撰集に51首が入集。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」