宮本武蔵

宮本武蔵(みやもと むさし)1584年(天正12年)〜1645年6月13日(天保2年5月19日)

江戸前期の剣客。二刀流(円明流,二天一流,,宮本流)の開祖。

名は玄信,号は二天。生年は『五輪書』序文から逆算した天正12(1584)年説のほかに養子伊織の作成した『宮本家系図』による同10年説がある。生地も美作国吉野郡讃母村字宮本(岡山県英田郡大原町宮本)のほかに播州(兵庫県)説もある。父は平田武仁(無二斎)。母は新免宗貞の娘が政と別所林治の娘率子の2説がある。

剣道史上著名な剣客だけに, 実録,小説,劇,映画などによってヒーロー像が創られてきたが,前半生の事績には不明な部分が多い。

幼少のころから兵法に心がけ,13歳ではじめて新当流の有馬喜兵衛と試合して勝ち,以後六十余たびの勝負に一度も負けたことはなかった。

慶長17(1612)年に舟島(巌流島=下関市)で佐々木小次郎と決闘したのち,大坂両陣に参戦,その後諸国を遍歴し,事績が明らかになるのは寛永11(1634)年,51歳以後である。

小倉藩主小笠原忠真の客分となり,島原の乱に際しては養子伊織と共に軍監として出陣する。

57歳のとき肥後熊本藩主細川忠利の知遇を得て,客として熊本千葉城址に住み『兵法三十五箇条』をまとめ,60歳で熊本西郊岩戸山の霊巌洞にしばしば籠り,座禅三昧の暮らしを送り,兵法伝書『五輪書』を執筆した。

『五輪書』は二天一流の剣の道をつづるとともに剣禅一如の思想的境地をしめす著作だった。さらに『独行道十九条』をまとめ自戒とした。その1週間後没した。熊本市竜田町弓削の武蔵塚がその墓とされる。武蔵は剣のほかに

書,画,金工などにもすぐれ,非凡な才をしめした。特に水墨画には気魄のこもった鋭い表現がみられ武人画家の最後を飾る。代表作に『鵜図』『芦雁図』『枯木鳴鵙図』などが伝えられる。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」