高倉天皇(たかくらてんのう)1161年9月23日(応保1年9月3日)〜1181年1月30日(養和1年1月14日)
平安末期の天皇。
後白河天皇と建春門院滋子の皇子。諱は憲仁。母滋子の姉は平清盛の妻時子である。
3歳で清盛の娘で関白基実の妻盛子の猶子となる。
仁安1(1166)年10月10日,6歳で立太子。同3年2月19日即位。父の院政のもとで成長。皇室との密接な関係を求める清盛の政策で,承安2(1172)年清盛の娘徳子(のちの建札門院)を中宮に迎える。
清盛の勢力拡大に伴い, 後白河天皇との軋轢が深まるなか,治承2(1178)年,生後間もない皇子(のちの安徳天皇)を皇太子とする。
天皇の苦悩にもかかわらず清盛は翌年11月クーデタを起こし,法皇を幽閉し院政をとどめ,軍事政権を敷く。翌年2月譲位し,厳島神社へ御幸する。
治承4年の福原遷都へも同行するが,生来の病弱に加えて,父後白河法皇と義父清盛との対立の心労が重なり,翌年死去。詩歌管絃に優れ,特に笛は堪能であった。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」