平正盛(たいらのまさもり)生年不詳〜1121年(保安2年)
平安末期の武将。院近臣。
正衡の子。桓武平氏の一系統である伊勢平氏に属す。
承徳1(1097)年,所領伊賀国山田(三重県大山田村, 上野市)・鞆田村(阿山町)を,白河法皇が皇女郁芳門院の菩提を弔って建立した六条院に寄進し,以後,院近臣となる。院に接近した背景には, 有力な院近臣藤原顕季, 藤原為房らとの結びつきや,法皇の寵妃祇園女御に奉仕していたことも関係したとされる。
因幡守在任中の天仁1(1108)年,出雲国で目代を殺害した源義親を追討,武士の第一人者となる。
この直後の除目で,「最下品」(侍身分)でありながら帰京を待たず「第一国」但馬守に遷任したとして,貴族の嫉視を受ける。以後,丹後・備前・讃岐守などを歴任,従四位下に至る。天永1(1110)には本拠の六波羅に私堂を建立,3年後には同所で白河法皇の方違御幸, 祇園女御の一切経供養が行われる。
また法皇に対する成功に努め,尊勝寺曼荼羅堂, その御願寺九体阿弥陀堂を建立。一方,北面武士の中心として子の忠盛らと京における悪僧強訴の防御や,強盗追捕に従事。
さらに西国でも活躍,備前守在任中の永久2(1114)年には海賊を追討,さらに元永2(1119)年には本家に背いて預所に暴行した仁和寺領肥前国(佐賀県)藤津荘司平直登を院宣により追討,荘園制秩序を守る警察力としての役割を果たす。
この際,「西海・南海の名士」を統率し,同地に平氏勢力を浸透させた。正盛は院近臣・武士の両面で,伊勢平氏が大きく発展する基礎を築いたといえる。