島津斉興

島津斉興(しまづ なりおき)1791年12月1日(寛政3年11月6日)〜1859年10月7日(安政6年9月12日)

幕末の第11代薩摩(鹿児島)藩主, 第27代島津家当主。

通称は豊後,大隅守。官位は従三位参議。第10代藩主宣の長子として江戸で生まれが,「近思録崩」(「文化事件」)により文化6(1809)年に斉宣は隠退重豪の後見を受け, そののちも天保4(1833)年に重豪がし斉興が19歳で襲封した。

文政3(1820)年までは祖父重豪の後見を受け,そののちも天保4(1833)年に重豪が死ぬまで, 重要事項についてはその指図の下にあったが,文10年には調所広郷を起用して藩債500万両の整理に乗り出した。

斉興の後継者をめぐっては嫡長子の斉彬と,斉興の愛妾お由羅の方の子久光とが競い,嘉永2(1849)年には藩内有識者や青年藩士らが斉彬を擁立すべく行動したことから「お由羅騒動」(「嘉永朋党事件」)と呼ばれる御家騒動に発展し,多くの処罰者を出した。

しかし斉彬の襲封を期待する阿部正弘政権下の幕府の圧力によって,斉興は同4年に隠退に追い込まれた。隠居後は鹿児島の玉里御殿で余生を送った。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」