島崎藤村(しまざき とうそん)1872年(明治5年2月17日)〜1943年(昭和18年8月22日)
小説家・町人。
本名春樹。別号古藤感無声など。長野県生。正樹・継の4男。明治学院(現、明治学院大)卒。生家は旧中仙道馬籠宿で本陣・問屋・庄屋を兼ねていた。
数え10歳で上京、泰明小学校を経て明治学院卒業(明24)。在学中に受洗したキリスト教の影響、馬場孤蝶・戸川秋骨らとの交遊を通じて文学に志し、「女学雑誌」に寄稿する一方、明治女学校の教師となった。
明治26年終生先達として仰いだ北村透谷らの「文学界」創刊に参加。最初は劇詩を書いたが、やがて新体詩に転じて仙台の東北学院赴任前後から発表した詩篇を集めて『若菜集』(明30)を刊行、以下『一葉舟』(明31)『夏草』(明31)『落梅集』(明34)によって詩人の名声を高めたが、小諸義塾の教師として信州に住んだころ(明32)から自然と人生に対する観察を深め、小説執筆に向かった。
『破戒』(明41)で作家的地位を確立した彼は、次作『春』(明41)において自伝的小説に転じ、田山花袋『蒲団』とともに自然主義文学の方向を決定した。
第三の長篇『家』(明44)は自然主義を代表する傑作となったが、その執筆中に妻を失った彼は、家事手伝いを頼んでいた姪と過失を犯し、罪を恥じて大正2年単身フランスに渡った。そこでの3年間は謹慎の生活ではあったが、同時にヨーロッパヘの理解を深めさせ、彼に日本の近代を見直させる契機となった。
帰国後の彼は旅行記『海へ』(大7)で独特の文明批評眼を示す一方、小説『桜の実の熟する時』(大8)『新生』(大8)を発表した。後者は姪との背徳を告白して頑廃からの甦りを描こうとしたもので、世間的にも大きな反響を呼んだ。以後の彼は雑誌「処女地」を創刊して女性のめざめを促し、『嵐』(大15)に描かれたように四人の子を育てて「若い生命」の成長に期待したが、みずからも再婚を決意し「第二の青春」を迎えようとした。
従来の問題意識の中心には、個人を圧迫する「家」とその原点としての父の問題があったが、それはしだいに父を座敷牢で悶死させた「黒船」の衝撃とわが国の近代化の探究にまで拡がって行った。
『夜明け前』(昭7、10)はその課題に応え、幕末維新期を舞台に日本の「若い生命」の苦しみを描いた大作である。
昭和10年日本ペンクラブが結成され、会長に推された彼は、翌年その国際大会に出席のためアルゼンチンに赴き、帰途欧米を視察した。この旅の感想は『巡礼』(昭15)にまとめられており、内外ともに騒然たる時勢の中で日本の使命を自覚した彼は、その認識をもとに『東方の門』(昭18~)を連較しはじめたが、開始後まもなく脳溢血で死去した。
彼の根本的課題は自己を解放して「生命」を発展させることにあり、それを抑圧する「家」や「出会」に対する酸味だが執拗な抵抗から、日本の近代化の問題に進み出た点にその文学的生涯がある。作品は詩・小説ほか、随筆・童話など数多い。
出典: 明治書院「日本現代文学大辞典」