与謝野晶子

与謝野晶子(よさの あきこ)1878年(明治11年12月7日)〜1942年(昭和17年5月29日)

歌人・詩人。

旧姓風。本名しよう。別号小舟など。大阪府生。宗七・津神の三女(第五子)。堺女学校卒。家は菓子商。

少女時代から店番の傍ら文学書に親しみ、堺敷島会に入るが旧派的傾向にあきたらず浪華青年文学会に加入。その機関誌「よしあし草」(後「関西文学」)に発表した詩歌が「明星」主幹与謝野鉄幹の目にとまり、その二号(明33・5)から短歌を発表。以後毎号の「明星」に短歌を出す。

同年8月、講演旅行のために大阪に来た鉄幹にはじめて会う。11月、鉄幹・山川登美子と共に、京都に遊び、三十四年一月、鉄幹と京都に再遊。六月、東京へ出奔して鉄幹と住む。8月『みだれ髪』を刊行、毀誉褒貶こもごも至る。10月、木村鷹太郎を仲人として結婚式をあげ、35年1月、与謝野家へ入籍。

37年1月、歌集『小原』刊行。以後『恋式』(共著、明38)『舞姫』(明39) 『太陽と薔薇』(大1)など、昭和3年の『心の遠景』まで24冊の歌集を出す。

明治37年9月号の「明星」に発表した詩『君死にたまふこと勿れ』が大町桂月から、国家観念をないがしろにした乱臣賊子の詩、などと罵倒される。

40年6月、「閨秀文学会」の講師となる。41年11月「明星」終刊。44年6月、平塚らいてうの訪問を受け「青緒」創刊についての協力を要請されその賛助員となる。

同年散文集『一隅より」を出す。以後大正期にかけて『人及び女とて」(大5)『我等何を求むるか』(大6)『若き友へ』(大7)『激動の中を行く』(大8)など多くの評論集を出す。

明治45(大正元)年、その前年に外遊した鉄幹の後を追って、5月にシベリア鉄道経由でフランスに行き、欧州各地に遊んで10月に帰国、鉄幹は翌年1月に帰国。

大正2年、朝日新聞に自伝的小説『明るみへ』を一〇〇回にわたって連載。大正9年、晶子の歌が下位春吉とエルビディオ = ジャンコの共訳によってイタリア語でナポリから出される。

10年、西村伊作・河崎なつ等と協力して自由主義的芸術教育を標榜して文化学院を創立してその学監となり、源氏物語などの講義をもする。

昭和3年、中国東北部からモンゴル方面を旅行。10年3月26日、鉄幹が急性肺炎のため死去(63歳)。12年3月、脳溢血で倒れ、いったん治癒したが15年5月再発、17年1月狭心症を、5月尿毒症を併発して死去。

没後遺詠集『白桜集』(昭17)が刊行された。一人の子供を育て新詩社の運営を扶け、与謝野家の生活と名誉のほとんどすべてを支えた彼女の業績は多方面に及び、短歌や随筆評論の他に、再度にわたる源氏物語の現代語訳などの古典研究・小説・童話・詩などに及んでいる。

明星派浪漫主義の代表人物として、石川啄木・北原白秋らに一定の影響を与えた点も見逃せない。樋口一葉と並んで明治期女流文学の巨峰というべきであろう。

出典: 明治書院「日本現代文学大辞典」