天保の大飢饉

江戸後期の1833年(天保4年)〜1839年(天保7)まで続いた飢饉。1835年〜1837年にかけて最大規模化した。寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つ。

主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害による大凶作であった。作柄は全国平均3~7分作となり,天保5~6年も全国的に不作,天保7年も天候不順で3~4分作となった。このため米価急騰も引き起こし、餓死者を多数出すこととなった。それを受け各地で百姓一揆打ちこわしが頻発し、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月には大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった大飢饉。