天明の大飢饉

江戸時代中期の1782年〜1788年(天明2年〜天明8年)にかけて発生した大飢饉。江戸四大飢饉の1つで、近世日本では最大の飢饉とされる。

1782年の六分作、1783年の関東地方水害、浅間山噴火、気候不順などによる大凶作により、翌年にかけ深刻な飢饉となった。また86年の凶作でその翌年も飢饉となった。この期間は一般に冷害型の気候、海流異変が続き、特に関東、東北に著しい被害を与えた。83年は夏でも綿入れを着用するほどの寒冷な北東風により稲は実らず、4分作以下で山間部などでは収穫皆無となった所も少なくなかった。このために米価は騰貴し、また自領の防衛のために行われる津留政策によって食糧の欠乏する地帯の飢饉は倍加され、雑穀はもとより海草、草木の芽や雑草、松の甘皮など、食糧になりうるものはすべて取り尽くされたという。

飢饉につづいて疫病の流行もあり、全国で90万人以上が死亡したといわれている近世日本最大の飢饉。