平将門(たいらの まさかど)生年不詳〜940年3月25日(天慶3年2月14日)
平安中期の武将。
桓武平氏高望の孫で父は鎮守府将軍良将(一説に良持)。
若いとき上京して一時期,摂関藤原忠平に仕えたこともあったが,志を得ず本拠地の下総国に戻って勢力を養い豊田,猿島,相馬の3群(ともに茨城県)を支配した。
承平5(935)年父の遺領の配分と女性問題をめぐって一族と争いを生じ,おじ国香やその姻戚の常陸(茨城県)の豪族源護の子らを殺したことで,おじ良兼,良正や国香の子貞盛の攻撃を受けることになった。将門はこれを打ち負かしたが,護がこの事件を朝延に訴え出したため召喚された。運よく恩運よく恩赦に浴し許され帰国した。のちおじたちとの争いは厳しさを加えたが,これを抑えこみ国司の抗争に介入した。
天慶2(939)年武蔵国において権守の興世王,介(次官)の源経基と群司の武蔵武芝との争いの調停に当たったが,経基によって朝延に訴えられた。
その矢先,常陸国における国守藤原維幾と土豪藤原玄明の紛争で将門を頼ってきた玄明を庇護して国府を襲撃,官物を奪って放火し,この段階で国家に対する反乱とみなされた。将門は興世王にのせられ下野(栃木県),上野(群馬県),武蔵,相模(神奈川県)の諸国を配下におき,八幡大菩薩の神託を得たとして新皇と称して坂東八カ国の独立を宣言し,下総国猿島郡石井に王城の建設を始めた。しかし翌年,貞盛や下野国の押領使藤原秀郷らに滅ばされた。事件後ほどなくしてできた『将門記』の語るところである。
この承平・天慶の乱が貴族に与えた衝撃は大きく,のちの争乱で「宛も承平・天慶の乱のごとし」と引きあいに出されることが多い。俠気に富む行動に対して悪逆無道の人物という評価のある半面,国家の苛政に勇敢に反抗した英雄とのみかたもある。このことが各地に首塚など多くの遺跡を生むことにもなった。茨城県岩井市の国王神社に将門の木像がある。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」