江戸時代後期の1836年(天保7年)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。郡内騒動ともいわれている。
1833年以来の凶作(天保の大飢餓)による米価高騰や、特産品である絹織物価格の暴落を直接の原因とする。
郡内地方では米価高騰が深刻となり、1836年8月15日に谷村(現山梨県都留市)の米屋の打ちこわしが起こった。同月21日、郡内の一揆勢は下和田村(現山梨県大月市)の治左衛門らに指導されて国中地方(甲府盆地一帯)に進出、国中地方の貧農層が加わり,騒動は甲斐一国に波及。農民が主目標とした山梨郡熊野堂村(春日居町)の豪商奥右衝門を襲撃したときには一揆参加者は1万人以上に達したといわれる。
5日後の1836年8月26日に諏訪藩兵と御嶽山神主の出動によってようやく鎮圧されるが、この数日間における打ちこわしは、甲府町方の他に106の村々、305軒におよんだ。同9年5月断罪となるが、死罪13人、追放93人をはじめ、受刑者総数562人にも及んだ。