空海

空海(くうかい)774年(宝亀5年)〜835年4月22日(承和2年3月21日)

平安前期の僧。真言宗の開祖。

讃岐多度郡生まれ。佐伯直田公の子、母は阿刀氏。

15歳で上京して母方の叔父、阿刀大足に師事し、18歳で高級官僚養成のための大学に入るが、まもなく退学して仏教的な山林修行をはじめる。

24歳の処女作『三教指帰』(797年)の序に、ある出家から虚空蔵求聞時法を教示され、四国の大滝岳や宝戸崎などでの修行によって効験を得た、とある。これを転機として、空海の人生コースは官僚の道から僧侶の道に切りかえられた。

そして31歳、第2の転機にめぐりあう。先進文明国、唐への留学である。2年間の留学から帰国した大同1年(806年)を境として、空海は無名の人から最高度に著名な人物に変身をとげ、真言宗の開祖への道を歩みはじめる。

帰国直後からすでに高名な最澄との交友がはじまり、最澄は密教修学のため空海に師の礼をとるが、10年後の弘仁7年(816年)に、ふたりの交友関係は決裂に終わる。注目されるのは、この年に空海の申し出によって高野山が下賜されたことである。

著作の皮切りとしては『顕密二教論』(816年)があり、晩年の主著として『十住心論』は、宗教意識の発展段階もしくは人間精神の安住の水準を10段階に分け、東アジアの主要な倫理的・宗教的思想を各段階に配当して、仏教を他の思想の上位に位置づけ、仏教のなかでは真言密教を最上位に位置づけてる。こうした晩年の構想がすでに処女作『三教指帰』は、儒教、道教、仏教の3教をそれぞれ代表する亀毛先生、虚亡隠士、仮名乞児が次々に登場して、ならずものの蛭牙公子に教え説くという筋立てで、読書を蛭牙公子の最低水準から、亀毛先生、亀毛先生の中間水準を経て、仮名乞児の最高水準にまで導く形になっているのだが、『十住心論』は蛭牙公子の水準をを第1住心、亀毛先生(儒)の水準を第2住心、虚亡隠士(道)の水準を第3住心として、仮名乞児(仏)の水準を第4住心から第10住心までの7つに細分化している。7つのうち、第4(声聞)と第5(縁覚)は小乗仏教、第6から第10まで(法相・三論・天台・華厳・真言)は大乗仏教、第10の真言だけが密教で、ほかの6つは顕教とされている。

『三教指帰』では、仏教が人間精神の到着しうる最高の水準とされたが、『十住心論』では、仏教のうちの密教のみが最高とされた。両著作は、このような構造的対応関係を示しているばかりでなく、その根底に迷悟不二の思想を共有している。

こうした事実は、空海の晩年に到達しえた体系的構想が、たんなる借りものではなく、青年時代から長い歳月をかけて育てあげられた独創的な思想である証といえよう。

出典:新潮社「新潮日本人名辞典」朝日新聞社「日本歴史人物辞典」