久坂玄瑞

久坂玄瑞(くさか げんずい)1840年(天保11年)〜1864年8月20日(元治1年7月19日)

幕末の長州(萩)藩士,尊攘派の志士。

藩医久坂楽迪の次男。兄玄機,父良迪の死に遭い,安政1(1854)年家督相続。

安政3年九州を遊学,月性, 宮部鼎蔵から勧められ,5月吉田松陰の門下に入る。

「久坂玄瑞, 防長(長州藩)少年第一流人物」とは松陰の評。翌年松陰の妹文子と結婚。高杉晋作とならび松下村塾の双璧であった。

翌5年学業修業のため江戸に出て村田蔵六(大村益次郎)に蘭学を学び翌年2月帰藩,5月江戸へ護送される松陰を送る。10月松陰が処刑されたのち,松下村塾生の結束を図る。翌万延1(1860)年江戸に出て蕃書調所の堀達之助の塾に入り,8月高杉らと共に小塚原の刑場に松陰の霊を祭った。

薩摩, 水戸,土佐の志士と交流を深め,次いで藩政府に働きかけ和宮降嫁と長井雅楽の公武合体運動の阻止を図るが失敗, 命ぜられて文久1(1861)年10月帰藩。「諸侯恃むに足らず,公卿恃むに足らず,草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し」とはこのときの感慨。

翌2年3月兵庫警衛の藩兵に加わり上京,攘夷の挙兵計画を進めるが,薩摩の同志が島津久光に弾圧され(寺田屋事件)て中止。以来, 周布政之助, 前田孫右衛門ら藩庁首脳部に接近,藩論を尊王攘夷に転換させることに尽力し成功。このときに呈出した「回瀾条議」「解腕痴言」は,長州藩尊王攘夷運動の方針を定めた。

次いで江戸へ, 12月高杉晋作らと共に御殿山に新築中の公使館を焼打ちにする。

翌3年上洛,尊攘運動を指導,士格を上げられて大組となる。

次いで下関に赴き,同5月アメリカ船砲撃を指揮,再び上洛して大和行幸を計画したが8月18日の政変により挫折。9月政務役に任命され藩政の要路に立ち,京と山口の間を往復。折から藩内には武力上洛論と割拠論との対立があり,前者に圧されるまま元治1(1864)年6月出動の長州藩兵を率いて洛南の山崎に布陣。

武力入洛には慎重論を唱えたが,来島又兵衛, 真木保臣(和泉)らの強硬論に屈し出撃, 禁門の変に敗れ鷹司邸に自刃した。25歳。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」