板垣退助

板垣退助(いたがき たいすけ)1837年5月21日(天保8年4月17日)〜1919年7月16日(大正8年)

幕末の土佐(高知)藩士,明治期の官僚,民権運動指導者,政党政治家。

高知城下に藩士乾正成の子として生まれた。幼名猪之助,通称退助,偉正形。号は無形。藩主山内容堂(豊信)の側用役から始まり藩の要職を歴任。

慶応3(1867)年,京都で中岡慎太郎と協力し薩摩藩と密かに私的な討幕盟約を結んだが,藩の路線に反し,要職を外された。戊辰戦争では土佐藩軍司令,東山道先鋒総督府参謀に任じ甲斐,北関東,会津に転戦,この時期に乾姓から先祖の旧姓板垣に復した。藩では家老に列し,高知藩大参事として藩政改革を推進。明治4(1871)年御親兵編成に参画,廃藩置県後参議。西郷隆盛らと留守政府を預かったが,征韓論争で敗北し辞職。

7年1月東京に愛国公党を組織,後藤象二郎ら下野参議らと民選議院設立建白書を提出したが却下され,帰郷して立志社を設立,士族教育・授産事業を展開した。8年参議に復帰したが,間もなく辞職。西南戦争(1877)に際して西郷軍へ呼応する機会をうかがったが成らず,立志社の獄を結果した。

10年,国会開設を求めた「立志社建白」を天皇に提出したが,却下された。その後,愛国社再興運動から国会期成同盟へと運動を進めて自由民権運動の全国的拡大に貢献。14年政変と国会開設の詔が換発されたものを機に自由党を創設,総理に就任,以後全国を遊説して党勢拡張に努め,15年岐阜遭難事件では,負傷しながらも「板垣死すとも自由は死せず」と暴漢を叱咤したと世間に華々しく喧伝された。この年,外遊資金の出所疑惑で自由党は大混乱に陥ったが,欧州の憲政事情研究の名目で後藤とふたりで外遊。16年6月帰国。

時に各地で過激な突出事件を起こし党の統制は混乱を極め、17年決断して自由党をいったん解党した。華族制度に批判的だったが,20年固辞しきれず伯爵を受爵。条約改正反対運動では伊藤内閣の政治姿勢を厳しく批判。22年2月,憲法発布され,議会開設は翌年に迫った。高知にいた退助は,愛国公党を再興して自由党再建を図る。23年旧自由党諸派は立憲自由党として結束,24年3月党名を自由党と改称,推されて総理に就任した。第2次伊藤内閣の内相に就任(1896)。31年,最初の政党内閣である憲政党大隈(隈板)内閣の内相を経歴,33年9月,立憲政友会の成立を機に政界を隠退した。

晩年は漬貧の生活を続けながら会社改良運動に専念。また39年「一代華族論」を公表して華蔵制度批判の意志が不変なことを示した。子息鉾太郎は,父の遺志を守って伯爵相続を辞退した。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」