桜の季節が近づくとウキウキする人は多い。「花より団子」「酒なくてなんの己が桜かな」が本音で、花見のご利益については、あんがい知られていないようだ。
三月も半ばを過ぎると「桜前線」なんて気象用語が飛び交い、桜の開花を心待ちに花見の計画を立てるのが平均的な日本人だが、花見が縁起のいい行事であることは、意外に知られていない。
- 花の開花は神様が降臨されたことを現している
古来「花」といえば桜をさすほど、桜は日本人にとってたいせつな花だった。さくらの「さ」は田の神様「くら」のおわします座を意味し、桜の木は神様の依り代でもあった。
開花は神様が降りられたあかしだから、かつては秋の実りを願いつつ花の下でお祭りをし、花で収穫を占った。ぱっと散れば凶。「花は桜、人は武士」と武士は桜の散り際の潔さを愛でたが、もとは、まったく逆の発想だったのだ。
花見は祓えのための宗教的儀式でもあった。期日が設定され、野山に出かけたことが伝えられている。野山にでかけ、花を愛で、その下で楽しむことは、厄を祓い、神様とともに過ごすことであった。
- 貧乏でも花見には繰り出すのが江戸っ子だ
桜の花見は平安初期に始まるが、もちろんやんごとなき世界の話。シモジモが繰り出すのは、江戸時代に入ってからだ。その様子は落語『長屋の花見』の中にもたくまず活写されている。
貧乏長屋の連中が花見に行くことになったが、なにせお金がない。卵焼きの代りにたくあん、かまぼこは大根、お酒はお茶け。それでも「こりゃあ灘かい?」「いや宇治だろう」ってな調子で盛り上がる。
八百屋お七の大火の翌春も、花見の人出は大変なものだったそうだ。焼け出されても花見には繰り出すのが、江戸っ子の心意気だったとみえる。
出典:講談社 武光誠編著「開運の手引き 日本のしきたり」