平清盛

平清盛(たいらの きよもり)1118年(元永1年)〜1181年3月20日(養和1年,閏2月4日)

平安後期の武将,政治家。

平忠盛の子。実は白河法皇の落胤で,母は祇園女御またはその妹という説もある。

祖父の正盛以来,平氏は院政と結びついて栄え,清盛も大治4(1129)年,12歳で従五位下,左兵衛佐となったのを最初として,順調に昇進した。保元1(1156)年の保元の乱では後白河天皇方について崇徳上皇方を被った。次いで平治1(1159)年の平治の乱では,源義朝と戦って勝ち,この結果,平氏に対抗できる武士はいなくなった。

翌永暦1(1160)年参議に任じられて公公卿に列し,仁安2(1167)年には太政大臣に昇ったが,やがて辞任し,翌3年,病危篤となって出家した。

法名静(浄)海。出家後は摂津福原(神戸市)の山荘に住み,京都の政治は子の重盛・宗盛が主導したが,清盛はなお強力な発言権を持った。

元来,清盛は軍事的,経済的に後白河上皇に承任してきたのであり,上皇との関係は親密で,仁安3年,清盛危篤の際には,上皇は清盛と協議のうえ,高倉天皇(上皇の皇子)を即位させた。高倉の母は清盛の妻時子の妹滋子(建春門院)だったのである。しかしこのころから,後白河と清盛との間には,対立が生じ始めた。高倉の即位によって政権を確立した後白河が平氏の台頭を抑えようとしたこと,平氏が後白河の近臣の立場から脱皮しようとしたことがその原因である。

承安1(1171)年,清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の女御として入内させ,翌2年,徳子は中宮となったが,後白河法天皇(1169年,出家し法皇となる)や近臣の間では,平氏,法皇の近臣が鹿ケ谷で平氏打倒の謀議をこらしたことが発覚し,法皇と清盛との関係はさらに悪化した。

同3年,清盛は武力を行使して法皇の院政を停め,法皇を鳥羽殿に幽閉した。

翌4年,高倉天皇は,徳子との間に生まれた安徳天皇に譲位し,上皇として名目だけの院政を執ったが,国政の実権は清盛が握った。

しかし平氏に対する貴族・寺社の不満は強まり,後白河の皇子で,高倉との皇位争いに敗れて不遇をかこっていた似仁王が挙兵し,ここに源平の争乱がはじまり,しだいに全国的な内乱へと展開した。

清盛は京都を離れて強力な政権を作るため,後白河法皇高倉上皇,安徳天皇を伴い,福原に移った。しかし京都を拠点として内乱に対処する必要から,約半年で京都に還った。

その後は平氏に反抗する東大寺・興福寺を焼き討ちし,国衛領・荘園に兵士・兵粮米をかけるなど,独裁的な政策をとったが,戦局不安のうちに清盛は没した。清盛の没後,後継者の宗盛は政権を後白河に返還し,清盛の政権掌握は約400日で終わり,後白河院政が回復した。

清盛は床との貿易に熱心で,大輪田泊(神戸市)を修築するなど,床船来航の便をはかった。約400日の短期間とはいえ,はじめて武家政権を成立させたし,また対床貿易を進め,大輪田泊を開いたことは,彼の開明的な見識を示すものである。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」