源義朝

源義朝(みなもとのよしとも)1123年(保安4年)〜1160年2月11日(永暦1年1月3日)

平安後期の武士。

源為義の長男。母は藤原忠清の娘。坂東に育ち「上総曹司」と称された。

成人ののち,相模国鎌倉を本拠として南関東の武士団の統合をはかった。なかでも天養1(1144)年の相模国大庭御厨押領事件中康治2(1143)年から久安1(1145)年にかけての下総国相馬御厨の現地支配権紛争への介入によって大庭,千葉氏を服属させたことは史料にも恵まれてよく知られている。

その後,妻の実家である熱田大宮司家(藤原氏)が待賢門院(鳥羽天皇の中宮・藤原璋子)の関係者を輩出していたことから,鳥羽上皇の抜擢を受け,仁平3(1153)年には従五位下下野守に叙任され,翌年にはさらに右馬助を兼ねた。

保元の乱では平清盛と共に後白河天皇方の軍事力の中核として東国の家人たちを率いて活躍。乱後, 左馬頭に任じ,昇殿をゆるされたが,崇徳上皇方についた父為義や多くの弟たちを失った。

こののち後白河院の近臣信西と藤原信頼が対立。

武門としてライバルとなった清盛が信西と姻戚関係を結んだため,義朝は信頼と提携。さらに二条天皇の親政をはかろうとする藤原経宗らの協力を得て,平治1(1159)年12月, 清盛の熊野詣の隙をねらってクーデタを決行した(平治の乱)。

これは一時成功をおさめ,義朝は播磨守, 嫡子頼朝は右兵衛権佐に任じたが,清盛が京都に帰還を果たすと情勢は一変。義朝は上皇・天皇を迎え入れた清盛との合戦に敗退し,再挙を期して東国への脱出を試みたが,途中,尾張国知多郡で長田庄司忠致によって乳母子の鎌田正清と共に誅殺された。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」