源義家

源義家(みなもとの よしいえ)1039年(長暦3年)〜1106年7月(嘉承1年)

平安後期の武将。

源頼義と平直方の娘の子。石清水八幡宮で元服し八幡太郎と号す。

永承6(1051)年に勃発した前九年の役に父に従って参戦,天喜5(1057)年黄海の戦いの大敗で頼義以下主従7騎が敵200騎に包囲された際,義家の抜群の騎射によって危地を脱したという。

康平5(1062)年,同乱平定,功により従五以下出羽守となる。同7年には美濃国の郎従を攻撃した源国房と合戦。次いで延久2(1070)年奥陸で反乱を起こした藤原基通を,承歴3(1709)年には美濃で私戦を惹起した源重宗を追討,永保1(1081)年には白河天皇の賀茂・春日などへの行幸に際して,園城寺悪僧の防御に当たる。同3年,奥陸守に就任,豪族清原氏の内粉である後三年の役に介入。義家の調停に反抗した清原家衡,武衡らを討ち清衡を助けたが,朝延の停戦命令を無視し,砂金など官物の納入も怠ったため,合戦は私戦とみなされ恩賞もなかった。以後,摂関家に近侍した弟義綱と対立,寛治5(1091)年には河内における郎等相互の抗争から両者は京で合戦を構えた。合戦は未遂だったが,義家のみ諸国からの荘園寄進を禁止される。

承徳2(1098)年,白河天皇の意向によって奥陸守の功過が定められ,同年には院の昇殿を許され院の側近となり,長治1(1104)年に延暦寺悪僧を追討するなどの活躍をした。反面,康和3(1101)年に嫡男義親が九州で濫行し,翌年には隠岐に配流され,嘉承1(1106)年にも3男義国と弟義光らが東国で合戦し,朝延から召喚を命ぜられるなど,一族の不祥事が相次ぎ苦境に陥る。その最中に死去。

権中納言藤原宗忠はその死を悼んで「誠に大将軍に足る」と評したが,のちに「武士の長者として多く罪無き人を殺す」と非難も記している。義家は武家棟梁として大きく評価されるが,その武力には畿内周辺を基盤とする軍事貴族層が目立ち,諸国の武士の統率者という理解には疑問もある。また後三年の役以降の不遇も,ことさら公家の抑圧とみることはできない。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」