桓武天皇

桓武天皇(かんむてんのう)737年(天平9年)〜806年4月9日(大同1年3月17日)

平安時代最初の天皇。

光仁天皇と夫妻光仁天皇と夫人高野新笠との長男。天智天皇の曾孫。名は山部。

母の家柄が低かったため,当初皇位継承者という立場にはなかったが,宝亀3(772)年,36歳に至って,光仁皇后井上内親王が厭魅の罪で廃后,次いでその子他戸新王も廃太子されるにおよび,翌年1月立太子された。ただしこの立太子は藤原百川が「奇計」を用いて実現したもので,のちのち桓武はこれを多としている。

天応1(781)年4月に即位,同母弟早良新王を皇太子に立てた。時に45歳。当初,みずからは聖武(広義には天武)系の皇統を受け継いだとの認証をもって行動するが,これを否定する氷上川継などの動きが相次いで起こり,天智系の皇統意識に目覚めさせられている。

そこで行ったのが藤原種継の進める平城京の放棄=長岡京遷都で,3年後の延暦3(784)年,万事が改まるという「甲子革令」の年を選んでこれを断行した。この遷都は長らく続いた大和宮都を放棄した「山背」遷都という点でも歴史的な意義は大きい。またこの遷都には寺院勢力の抑制も意図されており,寺院の移転や造営を認めていない。

しかし翌年9月,伊勢斎王となった娘の朝原内新王を送るため平城旧宮に滞在していた留守中,遷都=造都の中心人物継が暗殺され関係者を厳しく処断したが,事業は大打撃を受けることになる。もっともこの事件は,はからずも弟の早良を廃太子に追いやり,子の安殿新王(のちの平城天皇)の立太子を実現するするきっかけともなった。

その後皇后乙牟漏,夫人旅子などが相次いで没し,特に11年,安殿新王の病弱が早良の祟りと占いに出たことなどから,和気清麻呂の建策に従い長岡棄都を決意,12年新京の地として山背国葛野郡宇太村を選んで造都に着手,13年10月22日,このときも「辛酉革命」にあたる日次を選び長岡京より遷っている。

翌11月の詔で,新京を平安京と命名するとともに山背国を山城国と改めている。その後における造都事業は自身でたびたび工事現場を視察するなど,長岡造都時に比べるとはるかに積極的かつ慎重に進めている。一方東北経略も光仁朝の課題を引き継ぐ形で7年以降3次にわたって実施しているが,この間における坂上田村麻呂の果たした役割が大きい。

延暦23(804)年を過ぎたころからしばしば重病となり,24年12月,ともに腹心の藤原緒嗣と菅野真道に議論させた,いわゆる「徳政相論」を承けて蝦夷経営と造都事業を打ち切ったが,これは事態を文字通り劇的に終結させた桓武一流のパフォーマンスであったとみられる。「政事に心を用い,文華は好まなかった」といわれるゆえんである。

もっとも23年,最澄空海を伴った遺唐使の発遺は,のち嵯峨朝に至ってピークに達する唐風文化の隆盛をもたらしたという点で重要である。「造都,軍事による出費は多かったが,万世の基礎を築いた」というのが『日本後紀』に記す桓武評である。山陵は当初宇多野(京都市右京区)とされたが賀茂神社に近いことから柏原山陵(伏見区)と改められた。

母が渡来王族の後裔であったことから百済王氏の男女を重用して「朕の外戚」と呼び,またその一族の女性を多数後宮に入れたが,これが後宮制度の変化をもたらす要因となった。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」