大村益次郎

大村益次郎(おおむら ますじろう)1824年5月30日(文政7年5月3日)〜1869年12月7日(明治2年11月5日)

幕末維新期の政治家。明治陸軍建設の功労者。

周防の鋳銭司村字大村(山口市)の医師村田公益の子。幼名は惣太郎,のち良庵,蔵六。

19歳で蘭医梅田幽斎に学び,翌年豊後(大分県)の広瀬淡窓に漢籍を学ぶ。23歳のときの大阪の緒方洪庵の適塾に入り,蘭学,医学を修め,塾長を務めた。この間,長崎を訪れ名医奥山静叔に学ぶ。

27歳で父母を養うため帰郷して医を開業したが振るわず,宇和島藩に迎えられて西洋兵書の和訳,軍艦製造等を指導。

安政3(1856)年江戸に出て鳩居堂を開塾し,幕府藩書調教授手伝を経て講武所教授に就任。この間ヘボンに英語を学んだ。名声を聞いた長州藩は藩万延1(1860)年,出仕を命じた。帰藩して兵学を教え,兵政改革に携わる。慶応2(1866)年長州戦争には石見口の総参謀としてとして幕府軍を破滅させた。同4年1月,戊辰戦争が起こると,討幕軍として上洛した。維新政府の軍防事務局判事加勢を命ぜられ,軍政事務を担当,同年閏4月江戸に出て,上野彰義隊討伐,奥羽・北越の平定作戦に携わった。

総合的な視点で戦局を捉え,軍略は戦う前から必勝の成算をうかがわせるものであった西郷隆盛は大村の軍が進まないのをみて,部下将士のすすめるままに兵を率いて東上し士戦地平定を申し出た。大村は西郷を諫め西郷の青森到着前に五稜郭が陥落。西郷は,大村の卓見に感服し,「我誤てり面を合はずに恥づ」とそのまま帰郷。同年10月軍務官副知事となり箱館(函館)を鎮定。ここに戊辰戦争は終結し,その戦の功により永世禄1500石を受ける。

明治2(1869)年兵部大輔。軍制を徹底的に改革するため,陸軍はフランス,海軍はイギリスにならうこと,藩兵解隊,帯刀禁止,徴兵制度の採用等を建白。このため2年9月4日京坂地方旅行中,反対派士族の8人に襲われ,それがもとで死去した。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」