島津久光

島津久光(しまづ ひさみつ)1817年12月2日(文化14年10月24日)〜1887年(明治20年12月6日)

幕末の薩摩藩指導者。

父は藩主島津斉興,母は側室由羅。号は双松,大簡,玩古道人,無志翁など。斉興の継嗣をめぐり久光と異母兄弟島津斉彬のそれぞれを擁立する抗争(お由羅騒動,高崎崩れ,嘉永朋党事件などと称する)を生じたが,結局斉彬が嗣ぎ,次いで斉彬の遺命により久光の実子・忠義が藩主となる。

久光は生後間もなく種子島領主の養子に出されたが,のちに本家に戻り,さらに一門の島津忠公の養子となり天保10(1839)年大偶国重富領1万4000石を相続した。弘化年間(1844〜48)に外国軍艦の来航する事態を迎えて藩政に参与し始める。

藩主に就任した忠義の要請で本家に復帰すると,国父と称され藩政の実権を掌握した。開国後の政治情勢の中で尊攘を唱える,いわゆる誠忠組の青年の中から大久保利通を抜擢し,中央政局への参加を図った。

そして,文久2(1862)年西郷隆盛に先発を命じ(西郷はのち独断で京を目指したため遠島処分),率兵上京した。斉彬の遺志を継いで公武合体を構想し,寺田屋騒動(1862)で藩内尊攘激派を弾圧し,次いで勅使大原重徳を奉じて江戸に行き,一橋慶喜の将軍後見職就任などの幕政改革に寄与した。その掃途生麦事件を起こし,翌年藩英戦争(1863)を招いたが,薩摩軍の勇戦により朝延から撃攘の功を賞されている。

薩英戦争後,8月18日の政変を主導し参予会議に加えられ公武合体を目指し続けたが,同会議の解消により行き詰まってしまった。難局打開のため大久保と赦免した西郷を用いたが,結局,両人により公武合体は次第に後退し,倒幕への道が開かれた。

維新後,守旧的傾向を保持し続け新政府の開明政策を批判し,明治5(1872)年天皇巡幸の際に鹿児島でその趣意を建白している。西郷が下野したのち6年上京,内閣顧問,翌7年には左大臣にそれぞれ任命されたが,結局欧化政策や三条実美岩倉貝視らを批判する上奏を行い,辞職,帰国した。西南戦争(1877)の際には,西郷軍に加担する気配を全くみせていない。17年公爵となり,晩年は修史事業を進めた。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」