吉田東洋(よしだ とうよう)1816年(文化13年)〜1862年5月6日(文久2年4月8日)
幕末の土佐(高知)藩重臣。
幼名は,幼名は郁助,のち官兵衛,また元吉,実名は正秋,東洋と号した。
若くより船奉公や郡奉公を経歴,嘉永6(1853)年,ペリー来航に際し,藩主山内豊信(容堂)より大観察に起用された。この年の暮れ参政(仕置役)に昇任,翌安政1(1854)年,参勤で江戸出府の藩主に随従,江戸では水戸藩重臣藤田東湖や需者塩谷宕陰らの知遇を得たが,同年6月豊信主催の酒宴で不敬を演じ,免職帰国,各禄没収,城下外追放の処分を破り,高知城下の南郊長浜村に閉居した。そこで学塾少林塾を営み,義甥の後藤象二郎,福岡孝弟,野中助継,神山郡兼,真崎滄浪,岩崎弥太郎ら青年藩士を訓育。
4年将軍継嗣問題が起こり豊信は一橋(徳川)慶喜擁立に関与,東洋の復帰を必要としたため,翌5年1月赦免されて参政に復職,豊信を補佐した。6月紀州派の井伊直弼が大老に就任して一馬身党は敗北,豊信は6年2月隠居を余儀なくされた。
江戸に閉居する容堂の信任を受けて東洋は藩政指導の衝に当たり,幕府の信頼回復,藩の実力養成に尽力。住吉陣営の構築,「海南政典」「海南律例」へと結実する藩法・藩政整備,さらに人材登用,教育制度の改革,海防配備の実施,殖産興業の展開等に尽力した。
文久1(1861)年,武市瑞山ら郷士を主力とした土佐勤王営が成立,熱心に挙藩勤王運動の必要性を訴えたが,東洋は問題にしなかった。東洋の急激な藩政改革を快く思わぬ門閥層勢力と武市派がひそかに東洋排撃で提携。東洋は積極的な藩政改革維進の途次において勤王党の区刃に倒された。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」