淀殿(茶々)

淀殿-茶々(よとどの-ちゃちゃ)生年不詳〜1615年(元和1年)

豊臣秀吉の側室。

浅井長政とお市の方の長女。ちゃちゃ,二の丸殿,西の丸殿とも。天正1(1573)年,織田信長に攻められ浅井氏は滅亡,お市の方,ちゃちゃら母娘は信長のもとに送り返された。

信長の死後,柴田勝家に再嫁したお市の方と共に越前北ノ庄城(福井市)に移るが,同11年,秀吉に攻められて勝家,お市の方は自害。3人の娘は秀吉に保護され,のちちゃちゃは秀吉寵愛を受けるようになる。同17年3月淀城に入り,淀の方と呼ばれた。同年5月長子鶴松を生むが,鶴松は禾折。秀吉の小田原攻めに際しては小田原まで出向き,文禄の役には肥前名護屋の秀吉のもとに赴いている。

文禄2(1593)年,大阪城二の丸で次男秀頼を出産。秀吉が待ち望んでいた豊臣家の嫡子を生んだことで側室中第1の立場となり,慶長3(1598)年の醍醐三宝院での観桜の際には,松丸殿と杯の順番を争うほど権勢を誇った。

秀吉の死後,秀頼と共に大阪城に入り,西の丸に住んだ。その地位は正室北政所をしのぎ,北政所は京都三本木に隠棲することになる。しかし大阪の陣で豊臣方は敗北,秀頼と共に命を絶った。

政略面で徳川家康に敗れたものの,秀吉の死後,秀頼の後見として後家役割を果たしたと評価することができる。淀殿はまた,父母長政,お市の方の画像を高野山持明院に納め,追善供養を行い,京都に菩提寺養源院を建立。ここには秀吉から300石が寄進されている。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」