高橋景保

高橋景保(たかはし かげやす)1785年(天明5年)〜1829年3月20日(文政12年2月16日)

江戸後期の天文・地理学者。

字は子昌,号は観巣,玉岡,求己堂主人。父至時の通称作左衛門を襲名。さらにオランダ商館長ドゥーフからクロビウスの名を得た。

文化1(1804)年病死の父のあとを受けて弱冠20歳で天文方に任ぜられ,間重富の補佐を得て暦局を統率した。同8年蛮書和解御用創設に努め,これを出宰して暦局を西洋研究の中心機関のひとつとした。

測量御用を天文方と兼任し,父に師事していた伊能忠敬の全国測量事業の監督を引き継ぎ,忠敬没後は,その地図完成に尽力した。

また蘭書を参照して世界地図の作成を命ぜられ,同6年『新鐫総界全国附日本辺界略図』,翌年『新訂万国全図』を作った。当時の北方情勢を背景に地誌研究にも努め,カラフトについて『北夷考証』を著し,ケンペルの日本見聞記(『蕃賊排濱訳説』),ナポレオン戦記(『丙戌異聞』)を訳出し,さらにゴローニンやクルーゼンシュテルンの日本紀行翻訳の校訂などを行った。また満洲語を研究し,著書数点を著してその第一人者となった。

多方面でその才能を発揮し,種々の政治・行政手腕をふるい,指導者として活躍したが,文政11(1828)年シーボルトに禁制の日本地図などを渡していることが発覚し,投獄され,入牢中病死した。判決は死後死罪と決まったため,天文方としての高橋家は2代で終わった。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」