伊能忠敬

伊能忠敬(いのう ただたか)1745年2月11日(延享2年1月11日)〜1818年5月22日(文政1年4月28日)

江戸後期の地理学者、測量家。

上総国(千葉県)山辺郡小関村で神保家の3男として生まれたが、18歳のとき佐原の名家伊能家の婿養子となり、林大学頭の門に入り、忠敬を名乗るようになった。

伊能家はもともと豪家であったが、当時傾いていた家運をたてなおすため、造酒業や米穀の取引など家業に専念した。また名主としてしばしば私財を投じて窮民を救ったり、堤防修築に奔走したりして公益に尽くし、その功績により苗字帯刀を許された。

家業が順調になると、「好る所の学文」(文化10年、長女妙薫宛書簡)への志から隠居を願ったが許されず、50歳の寛政6(1794)年に願いがかなった。通称を勘解由と改め、翌7年5月家族の反対を押し切り江戸に出て、深川(江戸川区門前仲町)に居を構え、19歳年下の天分方高橋至時に入門し、天分暦学を学んだ。

有名な全国測量は、寛政12年閏4月江戸出発の蝦夷地測量から文化13(1816)年江戸府内測量まで、北海道から九州(2度遠征)にまでわたり、測量隊が踏破した距離は約4.4万km、忠敬自身の旅行距離も3.5万km近くにまでおよんだ。この約16年半、10回にもおよんだ全国測量旅行は、当時は実費によるものであったが、しだいに江戸幕府に認められ、便宜、費用も支給されるに至った。

測量の動機は、師の至時から与えられた課題、緯度1度の距離の測定、ひいては地球の大きさの算出を果たすことであった。

最初の蝦夷地測量で得た緯度1度の値は27里であったが、享和1(1801)年には28.2里(110.7km)という結果が出た。至時は初めこの値を認めなかったが、同3年入手したラランデ暦書にでるフランスの観測値を換算し、忠敬の値と一致することを知って納得したという。ただ忠敬は地球は球体という仮定に立ち、また最後までこの立場を変えなかった。至時はラランデ暦書より回転楕円形であることを知って緯度1度の里数の再計算をもくろんでいたが、まもなく病没して果たせなかった。

忠敬の測量は、観測地点の緯度、諸地点間の方位と距離の測定に主眼を置いていたが、経度の測定はうまくいかなかった。したがっていわゆる伊能図は経線をあとから計算によって書き入れたもので、先に引かれた経緯線に基づいて地図を描いたものではなかった。ために伊能図では、日本列島の北東部と南西部で東偏がみられる。こうした制約はあったものの、その優秀さはシーボルトの紹介によりヨーロッパにも伝わり、また文久1(1861)年イギリスの測量艦が日本沿海の実測を強行しようとしたとき、幕吏の持っていったこの図が実際とよく合致しているので、測量計画を中止し、近海の測深をしたのみで帰ったともいわれている。

至時亡きあとは、子の高橋景保が全国測量および地図作成の大事業を統括したが、忠敬は地図制作の業なかば、74歳にして江戸で没した。しかし彼の喪は秘され、文政4(1821)年『大日本沿海輿地全図』および『輿地実測録』が完成し、上呈されたのちはじめて公開された。墓は至時の葬地と同じ源空寺(台東区東上野)。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」