高橋至時

高橋至時(たかはし よしとき)1764年12月22日(昭和1年11月30日)〜1804年2月15日(文化1年1月5日)

江戸中期の暦算家。

東岡または梅軒と号した。作左衛門はその通称。

大阪の定番同心に生まれ,家は微禄で生活は苦しかったが算数暦算を好み,麻田剛立の門下に入って,その一の弟子となった。

中国の暦法は中身は耶蘇会士の西洋天文学によっていることは,将軍徳川吉宗のときにわかっていたが,宝暦の改暦にそれを盛り込むことに失敗した。

寛政7(1795)年に改暦の議がおこり,その仕事は麻田剛立学派に委嘱され,結局高橋至時が代表責任者となり,天文方に任命され,俸禄100御俵を賜った。門下の盟友間重富の協力で寛政改暦は成功したが,彼には次の目標があった。

それは,漢訳天文書ではなく,西洋語で書かれた天文学を直接輸入しようというテーマである。それには蘭学の知識が必要である。そこで独学でフランスの天文家ラランドの蘭訳書にとりかかった。のめり込みすぎて肺患がひどくなり,41歳で浅草天分台に没した。

残されたノート『ラランデ暦書管見』をみると,蘭語はあまり強くなかったが,専門的なことは理解できた。ただニュートン力学には歯が立たなかった。しかし,伝統的な暦算天文学では日月の運行が中心であったのを,惑星の運行にも興味を寄せている点では,西洋の天文学者の感覚に近づいた最初の天文家であった。高齢(51歳)で入門してきた弟子の伊能忠敬の学力が落ちる点にハラハラしながら,指導して全国測量を完成させた。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」