日柳燕石

日柳燕石(くさなぎ えんせき)1817年(文化14年)〜1868年10月10日(明治1年8月25日)

幕末の勤皇博徒。本名加島屋長次郎。

日柳燕石は漢詩人としての雅号。讃岐国(香川県)榎井村生まれ。

生家加島屋は質屋兼地主で裕福であり,幼少より漢籍に親しんで学もあったが,榎井村ノ隣が金比羅様社領で博奕も盛んだったことから博徒になった。16歳ごろからの遊蕩で生家を食いつぶしたが,金比羅様の賭場からあがるテラ銭で潤沢。旦那博徒のため切った張ったの逸話にとぼしい。

高松藩勤皇派の魁で藩主一族の松平左近の影響で勤皇派になり,安政2(1855)年同藩勤皇派と組んで挙兵を計画し,6年に正規製造,文久3(1863)年には軍費2000両の調達にかかったが,露見して藩士たちは捕らえられたものの燕石は無事。

慶応1(1865)年長州の高杉晋作が紅屋喜助の変名で妾おうのと四国へ逃げてきたのをかくまった。高杉のほかにもかくまわれた勤皇の志士は多く,燕石から漢詩をもらってその志を称されているが,サムライが博奕打に漢詩をもらうのも妙。

慶応1年閏5月に逮捕され,明治1(1868)年出獄後,征討総督仁和寺宮(彰仁新王)の日誌方として奥羽戦争に参戦し,柏崎の陣中で病没した。

維新の内戦に参加した博徒は多いが,勤皇派は燕石,佐幕派は新門辰五郎が代表。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」