男谷精一郎

男谷精一郎(おだに せいいちろう)1798年(寛政10年)〜1864年8月17日(元治1年7月16日)

江戸後期の幕臣,剣客。

男谷信連の長男。江戸生まれ。幼名新太郎,諱は信友,雅宮は静斎,蘭斎。20歳で同族男谷思孝の養子となり,小十人頭となる。

幼少期から文武に励んだが,特に平山行蔵に兵学を学び,時勢に深い見識を持った。のち団野源之進(真帆斎)について直心影流を修め,江戸の本所亀沢町で道場を持ち,多くの門人を教えた。

剣にとどまらず修行意欲をもち,楠木正成,諸葛孔明などの誠忠を尊び,書画をよくしたことなどは,行蔵の感化によるところが大きい。

34歳で書院番なり,老中水野忠邦に剣技を賞せられ,幕臣間に有名となった。時勢を受えて幕府にしばしば武芸奨励を建議。

安政2(1855)年講武場(3年講武所と改称)が設置されるや頭取となった。

文久1(1861)年先手頭格となり,翌年従五位下下総守に叙任。御旗奉行,講武所奉行並と昇進した。江戸深川増林寺に葬られる。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」