武田信玄

武田信玄(たけだ しんげん)1521年12月1日(大永1年11月3日)〜1573年5月13日(天正1年4月12日)

戦国時代の武将。

実名は晴信,通称太郎。大膳大夫,信濃守。出家し信玄と号す。甲斐(山梨県)守護武田信虎の嫡男,母は大井信達の娘。

長禅寺で岐秀元伯の教えを受けて成長。若くして上杉朝興の娘を妻にするが死別,天文5(1536)年室町幕府将軍足利義晴の諱の1字を得て元服し,京都の公家三条公頼の娘と再婚する。

同10年,溝を深めた父を強制的に隠居させ今川義元のもとへ放逐,家臣団の支持を得て当主の座に着くや,父と同じく信濃への侵攻を開始する。

同11年妹婿の諏訪頼重を打倒し,進んで村上・小笠原氏らと対峙,同22年これを撃破し越後へ追って北信濃へ進出,上杉謙信との対立を引き起こす。

翌23年今川・北条氏と同盟を結んで謙信を圧し,5回にわたる川中島の戦を経て着実に北信濃を掌握,その間木曾・仁科氏らも下して信濃の大半を制圧すると飛騨へ侵入,永禄9(1566)年には長野氏を滅ぼし西上野をも支配下に収めた。

これより先,今川義元の娘を妻とする嫡子義信と対立,永禄8年西に領土を接す織田信長の養女を4男勝頼に迎え,苦悩の末に義信を幽閉し駿河進出の機会をうかがう。

同10年義信一派粛清で動揺する家臣団から起請文を徴し,手堅く内部の結束を強化する一方,今川氏真と断交して娘を信長の子信忠に配し,織田・徳川氏と結んで背後の憂いを絶つ。

同11年駿河を占領して氏真を遠江へ追い,翌年伊豆へ攻め入って北条氏政と対峙,この年越相(越後,相模)同盟が成って謙信に背後を圧迫されるが,越後本庄氏や一向一揆を誘うなど外交手腕の冴えを見せてこれを牽制し,小田原城を攻め氏政を三増峠に破る。

元亀2(1571)年謙信と絶った氏政と再び結び,本願寺,一向一揆や浅井・朝倉氏らとも協調して信長包囲網を形成した。こうして万全の態勢を整えると,同3年病を押して遠江へ出陣,家康・信長連合軍を三河三方原に破り,翌年三河野田城を包囲するが,病が悪化しやむなく甲府へ帰陣の途中,信濃駒場で波乱に満ちた生涯を閉じた。死因は胃癌。

妻の三条氏を介して義兄弟の管領細川晴元,本願寺顕如を通じ,京都とのつながりや本願寺,一向一揆との関係を存分に活用。

さらに姉妹や子女を今川・北条・穴山・仁科・木曾氏ら国内外の大名,国人の養子,妻として配し,人脈の輪を拡げて遠交近攻策を展開,鮮やかな政治的手腕を発揮する。

それは内政にも発揮され,天文16(1547)年には分国法「甲州法度之次第」を制定して分国統治の拠り所とし,検地や棟別調査を実施して家臣団の増強を図り,才覚ある家臣を奉行や各地の城将として配置するなど手堅い分国支配を行っている。

また城下町や交通路の整備, 治水,新田開発などにも力を注いだ。

儒学,禅学,兵法,詩歌などの勉学にいそしみ,天性の才能に磨きをかけて統合の要となったが,一族,家臣ともに,その個人的力量に頼り過ぎたきらいがある。

中肉の体型で,若いときから毛髪がやや薄めで,柔和ななかにも精悍さのある風貌を持っていた。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」