武田勝頼(たけだ かつより)1546年(天文15年)〜1582年4月3日(天正10年3月11日)
戦国・安土桃山時代の武将。
武田信玄の4男。母は諏訪頼重(南北朝時代の頼重のは別人)の娘。
生誕に際し,父信玄は諏訪氏の通字「頼」を入れて勝頼と名付け,頼重の跡目として総領家を継がせ,諏訪支配を堅固にしようとの心積もりであった。『甲陽軍鑑』によれば永禄5(1562)年に勝頼は,伊那の郡代として高遠城主となっている。ところが同8年8月, 信玄の長男で今川義元の娘を妻とする義信は謀反が発覚し幽閉される。
次男は盲目で3男は早世していたため,勝頼の信玄の後継者としての地位が確定し,同年11月義元に対抗するため武田との同盟関係を求めた織田信長の養女と結婚した。この女性は翌年信勝を生み亡くなっている。
元亀2(1571)年高遠から甲府に移り,このころから対外的にも信玄後継者としての行動を取り始める。
天正1(1573)年4月,信玄の死により家督を継ぐが,高遠で独自の家臣団を形成していたこともあって,信玄の家臣たちとはややもすると意思の疎通を欠くことになった。
同3年5月に三河の長篠城を攻めるが,5月20日の設楽原での合戦で鉄砲と馬防柵を利用した織田・徳川の連合軍に大敗する。
その後, 態勢の立て直しを図り,同5年1月に北条氏政の妹と結婚した。
翌年3月に越後の上杉謙信が死亡し,景勝と景虎の間に家督争いが起きると(御館の乱),初めは氏政の弟景虎に味方したが,軍資金の提供や領地の割譲などを条件に結局景勝についた。このため北条氏との関係が悪化し,東駿河や西上野を攻撃された。
同9年に新府城を築いて入城するが,翌年1月には木曽義昌が織田信長に寝返り, 親族の穴山信君も徳川家康に内通し,2月,伊那谷に織田軍の攻撃を受ける。
3月2日高遠城が落ち,翌日新府城に火を放って岩殿城に向かったが,行く手を阻まれ,11日,一族と共に田野(山梨県東山梨郡大和村)で自害した。墓は同地の景徳院にある。軍事には優れていたが,政治家として時代に乗り遅れた武将といえる。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」