山県有朋

山県有朋(やまがた ありとも)1838年6月14日(天保9年閏4月22日)〜1922年(大正11年2月1日)

明治大正期の軍人,政治家で元老の筆頭格。

父は長州(萩)藩士山県有稔,母は同藩士岡治助の娘松子。幼名は辰之助, 狂介など。

長州閥, 陸軍の最長老で官界や警察にも絶大なる勢力を振るった怪物的人物だが,家庭的には恵まれず, 母は5歳のときに病死, 妻友子との間に3男4女をもうけたが, 山県の死後も生きたのは次女のみであった。

吉田松陰の松下村塾(萩市)に学び,21歳のとき藩命で伊藤博文ら5名と京都に派遣されて以来尊王攘夷運動に参加,文久3(1863)年奇兵隊軍監に抜擢され壇ノ浦支営司令となり,翌年英米仏蘭4国連合艦隊と交戦して負傷(4国艦隊下関砲撃事件)。

明治2(1869)年西郷従道と共に渡欧。3年8月帰国直後に兵部少輔となり,数日後兵部大輔の前原一誠が辞任したため実質上明治維新政府軍部の最高首脳となった。

4年7月14日(1871.8.29)廃藩置県の実施と山県の兵部大輔就任が重なり,直ちに国軍の創設に着手,薩長土3藩の兵1万で親兵を組織するとともに, 東京,大阪,鎮西(小倉),東北(仙台)の4鎮台を設置, ヨーロッパで数百年を要した兵権統一の大事業を一気に実行した。

5年兵部省が廃止となり,代わって陸軍・海軍両省が設置されると,陸軍大輔に任じられた。以後,16年内務卿になるまで,陸軍卿(初代),近衛都督,西南戦争(1877)における征討軍参謀, 参謀本部長など陸軍の枢要ポストをことごとく歴任した。

11年には参謀本部, 監軍本部を設置して統帥権の独立(参謀本部を陸軍省から独立させること)を進め,軍政(軍備・人事・予算など軍事に関する行政)と軍令(統帥)の区別を明らかにし,組織上天皇制軍隊の建設に努めた。同年「軍人訓誠」, 15年「軍人勅諭」を発布し,「忠君愛国」精神を軍人に注ぎ,内面からの天皇制軍隊の実現も怠らなかった。

18年第1次伊藤博文内閣で, はじめて軍務外の内務大臣に就任し,黒田清隆内閣でも引き続き内相を務めた。

20年には官僚制度の出発点となる文官試験制度を施行し,帝国大学出身エリートが官僚を独占する道を開いた。

21年市町村制を公布(翌年施行)し,地方に対して国家権力の介入を容易にした官治的地方自治制度の成立を図った。

22年12月〜24年5月,第1次山県内閣では,23年まで内相を兼ね, 全国を包括する中央集権的警察制度の実現にも努めた(33年3月治安警察法公布)。31年から33年9月まで再び首相を務め, 33年5月には軍部大臣現役武官制を設け,軍部内への政党の影響排除を図った。その政策に一貫して流れていたのは執拗な政党嫌いと官治制に対する絶対的信奉である。

23年陸軍大将に進み,24年元勲礼遇, 25年第2次伊藤内閣の司法大臣,26年枢密院議長の経歴を重ねた。日清戦争(1894〜95)では第1軍司令官,日露戦争(1904〜05)では参謀総長兼兵站総監を務め,両戦争後の戦史編纂を統制下に置き,自己の存在を大きく描くことに努めた。31年元帥。

42年伊藤博文が暗殺されると,軍および政界の頂点を極めた。大正期になると制肘力は衰え,10(1921)年宮中某重大事件(皇太子妃色盲事件)で山県の主張する婚約解消論が敗れると,小田原の古稀庵に閉じこもったまま翌年死去。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」