浅井長政

浅井長政(あさい ながまさ)1545年(天分14年)〜1573年9月24日(天正1年8月28日)

北近江(滋賀県)の戦国大名。

久政の子。通称新九郎。備前守。

南近江の大名六角義賢の諱の1字を受けて賢政と名乗り,永禄2(1559)年義賢の家臣平井定武の娘と結婚させられたが,すぐに離縁。翌年野良田(彦根市)の合戦で六角軍を破ると,重臣らの支持を得て父に代わってその家督を継いだ。

同4年, 賢政の名を捨て長政と改名することで六角氏との対決姿勢を強める。

以後積極的に南近江に侵攻し,六角氏の内紛もあってその版図を愛智郡(滋賀県)あたりにまで広げた。

永禄10年, 織田信長が美濃(岐阜県)を平定するとその妹お市(小谷の方)と結婚して同盟関係を結ぶが,元亀1(1570)年4月, 信長が越前(福井県)の朝倉義景を討つため敦賀まで進むと,突然離反して兵を挙げた。

信長はあやうく危地を脱し,同年6月徳川家康と共に近江に侵攻した。長政は朝倉氏の支援を得て, 姉川をはさんでこれと戦うが敗北(姉川の戦)。9月には本願寺を攻める信長軍の背後を突くべく朝倉氏と共に坂本(大津市)に出兵した。

12月, 将軍足利義昭の仲介でいったんは和睦するが,以後江北10ヵ寺を中心とする一向一揆勢力と連携しながら,横山城(長浜市)の木下秀吉ら信長勢と対峙した。

同3年7月, 信長が本拠小谷城(湖北町)に迫ると朝倉氏の来援を得て戦ったが,それに呼応して西進していた武田信玄の到着を待たずに突然朝倉軍が帰国してしまい,勝機を逸した。

翌年信長は将軍義昭を追放し,8月には小谷城に出兵,まずは救援に駆けつけた朝倉氏を越前に追撃してこれを滅ぼし, ただちに兵を近江に返した。

孤立無援となった小谷城で,長政は父に続いて自害し,首は京都で獄門に懸けられた。墓は徳勝寺(長浜市)にある。

妻お市と3人の娘は助け出され,お市の方はのち柴田勝家と再婚,長女茶々は秀吉の側室淀君となり,次女初,3女小督はそれぞれ,京極高次,徳川秀忠の妻となっている。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」