明智光秀

明智光秀(あけち みつひで)1528?(享禄1年)〜1582年7月12日(天正10年6月13日)

安土桃山時代の武将。

美濃土岐氏の支族というが不詳。美濃明智庄の出身でこの姓をとなえ通称十兵衛。

はじめ越前の朝倉義景に仕え,義景を頼った足利義昭と共に,織田信長のもとに赴き,義昭に仕えた細川藤孝と共に入京を工作して名をあらわした。従って信長の家臣であると同時に義昭にも奉仕した。

永禄11(1568)年の信長入京に当たっても,義昭のため公家側に働きかけ,翌12年は木下藤吉郎(豊臣秀吉),丹羽長秀らと軍政に能力を示し,公家寺社領仕置や庶政にも携わった。

信長と義昭対立のときも両者の間に立って斡旋した。

元亀1(1570)年信長の摂津, 近江の出陣に従い,同2年近江滋賀郡を領して坂本築城を始め,同3年浅井氏の小谷城の包囲に参加,天正1(1573)年越前朝倉氏攻略にも加わり同国の庶政も担当, 同2年大和多聞山城を守備,美濃, 河内に転戦,同3年8月功により九州の名族惟任姓と日向守を与えられた。

信長の統一過程が西に向かうと丹波攻略の先鋒となり,多紀郡八上城に波多野秀治を攻め,さらに紀州雑賀の一向一揆に対し,大和信貴山城に松永久秀を滅ぼし,再び丹波八上城を攻め,その間秀吉を救援して播磨に出陣して神吉城を陥れ, ひるがえって八上城波多野秀台を降し、丹波攻略を完成,一国支配を認められた。

天正8年は4月備中の秀吉を助け,9月大和の滝川一益に協力し大和寺社本所の所領差出を命じ,9年8月因幡鳥取城攻撃にも秀吉を援け, 丹後の検地を断行, 10年甲州の武田勝頼攻撃に従う。4月安土に帰陣すると,徳川家康の饗応役を命ぜられたが,その直前に備中高松城包囲に救援に向かうことになった。

光秀の東奔西走の労を顧みない信長につよく反発,一旦本拠坂本城に戻り,亀山城(亀岡)に入り,ここで愛宕山に詣り謀反を決意した。

同年6月1日備中出陣の名目で1万3000の軍兵を率い亀山城を発して,老ノ坂で天下取りを表明, 本能寺を急襲, 信長を自刃せしめ,二条御所に信忠も自滅させた(本能寺の変)。

直ちに人心収境の手を打ったが,機敏な秀吉の反転を6月13日山崎に迎えて敗れ,一旦勝竜寺城に入り再起を期して坂本に向かう途,小栗栖で土民の襲撃によって自刃。法名秀岳宗光。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」