吉田稔麿

吉田稔麿(よしだ としまろ)1841年3月16日(天保12年閏1月24日)〜1864年7月8日(元治1年6月5日)

幕末の長州(株)藩の志士。

名は秀実,字は無免。稔麿は通称で栄太郎とも称す。長州藩士雇 吉田清内の子として萩に生まれる。

安政3(1850)年,吉田松陰に師事し,高杉晋作久坂玄瑞, 入江九一と共に松門四天王と称された。無逸の名は,王道から逸れて放通に走ることのないようにと,松陰より与えられたもの。

安政5(1858)年, 松陰の再備に当たり免獄に奔走したため,謹慎組預けとなる。

万延1(1860)年脱藩して江戸に行き,幕府旗本妻木田宮の用人となって江戸の情勢をうかがった。

文久2(1862)年京都に出て,脱藩の罪を謝し許された。その後,幅広い交遊を生かして江戸,京都をはじめ諸藩を往来し,『東西不競密話』を著して政治的建策を行った。同3年,奇兵隊に入隊。7月士籍に列せられ,被差別部落の人々を兵士に登用するよう建策。その実施状況は不詳だが,これはのちの新団や一新組へと結実していった。

元治1(1864)年5月,上京して政治工作に当たる。同年6月5日,池田屋で諸藩の同志と会合中のところを新選組に襲われ,重囲を破って長州藩邸まで帰ったものの傷は重く,門外で自殺。年は24歳だった。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」