島津義久

島津義久(しまづ よしひさ)1533 年(天文2年)〜1611年3月5日(慶長16年1月21日)

安土桃山時代の南九州の大名。

貴久の嫡子。修理大夫。初名は忠良。

将軍足利義輝から諱の1字をもらい義辰と名乗り,近衛家を通して修理大夫の官を獲得し,永禄9(1566)年家督を継承した。その後,薩摩(鹿児島県)北部の菱刈氏を破り薩摩国を分国化し,大隅国(鹿児島県)の伊地知・肝付氏を破り同国も分国に加えた。

天正5(1577)年には伊東氏を日向国(宮崎県)から追放し,翌年豊後(大分県)大友氏を日向耳川に下し,南九州3国を領する大名となった。

こののち, イエズス会との間で鹿児島に司祭館を建設し直轄貿易港山川で南蛮貿易を行う計画を進めたが,肥前(佐賀県, 長崎県)竜造寺氏を倒し北九州への影響力行使が可能になると計画は中止された。

天正15年,豊臣秀吉の九州平定に屈し,出家して竜伯と号した。

文禄1(1592)年の朝鮮出兵には,弟義弘らを派遣し,自身は鹿児島にとどまり寺社領の没収など,中世的な知行体制を近世に移行させる前段の作業を行った。

男子がなく,家督には義弘の子久保を指名。久保が朝鮮で没したのちは忠恒を家督に据えて隠居したが,義弘と共に生涯「両殿」として影響力を行使した。『鹿児島県史』,福島金治『戦国大名島津氏の領国形成』

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」